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エモさを深く掘り進めて共感を育む

先日は誕生日という節目を迎え、色んな人からお祝いの言葉を頂戴し、様々なSNSを通じて多くの人と交流をした。

ただ、その"人数"には大した意味がないと思っている。

連絡を取ることでその人の表情や好みなどを思い浮かべて、「どんな人か?」という特徴を自分がどれだけ知っているかの方が大切だからだ。

そしてそれは、とても幸せな時間。

そういえば…

「あの時一緒にあそこへ行ったよなぁ」とか、「一緒にお酒を飲んだよなぁ」とか、そういった体験を思い起こす瞬間こそが、かけがえのないもの。

僕にとっての誕生日は、普段は空いてる距離を縮めるためものであり、関係を深め直すためのものであり、今後もまたいつかどこかで巡り逢うための糧になるものなんだ。

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「おめでとう」という言葉に力が宿るためには、互いの感性が深く通じ合う必要があると思う。

感性が溶け合うような体験を重ねることで、お祝いの言葉を受け取った時に、コチラの受け取り方も多様になっていくからだ。

何も繋がりのない人から言われた「おめでとう」は、ただのおめでとう。

普段から交流を取っていたり、何か思い出に残る体験を共有した相手から言われる「おめでとう」という言葉からは、相手はどんな想いをこめているのか?という『他者の感性』をイメージできるんだ。

そのおかげで、より濃密に受容することができる。

その瞬間って、心が穏やかに温かくなるんよね。

たとえ普段は交流がなくても、誕生日というキッカケがあったから声をかけてくれる人もいる。

それはそれで有り難いことで、これから関係を深めていくためのキッカケになる。

そういったコミュニケーションの一歩目を、有り難くしっとりと受け取りつつ、そこで関係が滞ることなくこれからの行動を変えていきたいと思う。

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最近Twitterで「この風景を観て何を感じますか?」「どの写真がお好きですか?」という質問をしている。

実はあの質問の意図とは、『互いの感性をシェアすること』にあるんよね。

同じ光景を見て何を感じるか?は1人1人違うし、その時の気分によっても変わってくる。

その感受性を共有したいし、「今の気分だとこうゆうことを感じる」という気持ちを、自ら言葉にするキッカケを作りたいんだ。

基本的に、自分がどんなことを感じているか?を他者に察してもらうことは難しい。

「富士山の初日の出といえば、めでたい!」といったような、世間に広く浸透しているものであれば、感性は単一で自ら言葉にする必要もないだろう。

けれど、もしも富士山の初日の出のタイミングで大切な人が亡くなったとしたら、その時の感性は『めでたさ』ではなく、『哀しみ』なのかもしれない。

その感性は、自ら言葉にしないと誰にも分からないんよね。

他者にはもちろん、自分にも分からない。

分かってるつもりになってるだけで、言葉にすることで、実はこう感じていたのかという自己理解が少しずつ沁み渡ってゆくものだから。

だからこそ、普段から自分が感じたことを言葉にすることを大切にしていきたいんよね。

他者の感性に染まるだけでは自分を大切にできないから、お互いの感性が溶け合えるように、自分の感性を伝える力をしっとりと整えていきたいんだ。

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日本人は同調圧力が強いと言うけれど、もしもその圧力をかけられることを拒否したいのなら、自分の感性を相手に伝える責任が生まれると思うんよね。

『同調』ではなく『共感』で他者と繋がるためには、自分が何を感じているか?を主張することが必須だから。

自分が感じていることを察してもらうことを待つというその姿勢に、自分の置かれている立場という無意識のマウンティング(多数派とか権力側の意見とか)が加わると、「察しろよ」という同調を求める態度が生まれる。

だけれど、、、

自分はこう感じる。
他者はまた別の感じ方をしている。

「共に別々の感性を持っている」という状態を互いに認め合うその過程で、共感が育まれるんよね。

その時にたまたま同じような感性を感じていたとしたら、それは『同感』というシンパシーで繋がったということ。

それは、ただのハッピーなんよ。

同感はハッピーだけれど、必ずしも同感である必要もないんよ。

他者に同感を求めようとすると、自らの『感性』ではなく『調子』を合わせようとする人がいるから、同調圧力が育まれていくんよね。

『調子』を合わせないと、自分が不利な立場に置かれてしまうという"弱さ"を抱えているから。

その弱さをつついて生まれた同調は、なんだか虚しいなぁと感じる。

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最後になるけれど、改めて、共感とはたまたま繋がるものではなく育むものだと深く実感した。

まずは自分の感性を言葉にして、それを他者に伝えて、それが他者に伝わって、相手の感性を引き出して、濃密に受容して、そこでやっと『共感』する。

「共に感じる」わけだから、自分だけが共感した気になっても、それはきっと本質的には共感じゃないんよな。

「エモいね!」
「うん、エモいよねー!」

…という共感もあっさりしていて楽しいけれど、そのエモさを深掘って自分の言葉にした時に、より深い共感になる

やはりそれは、たまたま重なるものではなく、自ら育むものだ。

・・・誕生日という節目を機に、様々な人の感性と触れあうことができました。

ホントに有り難うです(*^^*)

これからも、あなたの感性を教えてください。

僕も、自らの感性をしっとりと伝えていきます。

育んで参りましょう。

それでは、またいつかどこかで!

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者のツイートを深堀りするエッセイです。
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今回は寝落ちして月曜の朝になってしまいました!やっちまった!!!

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています!

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あなたの心へなめらかに染み渡りたい



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