見出し画像

僕があなたの笑顔を願う理由

自分が大切にしたい人との関係を育みながら、その人の『自分らしさ』みたいなものを、僕は引き出したいと思っている。

アイデンティティー、ありのままの価値、自我、ワガママ、自己肯定感。

それは色んな言葉で表現されているけれど、、、

「自分はこの世界に生まれてよかったんだ」と心から思える感じというか…

「自分はこの世界にいちゃいけないんだ」と決して感じることなく、心豊かに生きるための根っこみたいな感覚を、本人が持てるかどうかということだ。

・・・というのも、僕は20代半ばまで『自分らしさ』が全く分からなかった。

誰しも、思春期に自分のアイデンティティーに悩むことはあったと思う。

僕の場合は、学校で周りに同調しながらふんわりと生きてる自分が、はたして本当の自分なのか?が分からなかった。

学校から家に帰れば、家族が大声で喧嘩していたり、反対に、無言のままで会話が全くなかったり。

そんな日々を過ごしていたから、母と父と祖母のご機嫌を取りながら、自室にこもって、家庭内で自らの居心地を確保することに必死だったように思う。

「自分は、家族や周囲の要望を満たすために生きているのか?」

このように感じて、自分の人生を生きられていなかった。

その一方で、若い頃は恋愛もたくさんした。

すぐに誰かのことを好きになって、その相手で自らの心の穴を埋めようとしていたように思う。

けれど、いつも自分の想いや欲ばかりで、相手の望みや"私たちのこと"なんて、考えられていなかった。

「自分が自分であるがままに、誰かに受け入れてほしかったんだな」と、今となってはそう思う。

自分はこの世界に在るはずなのに、なんだか居心地が悪くて、存在していないも同然だと感じていた時期もある。

・・・そして、22,3歳の頃に人生がどうでもよくなって、爆発してしまった。

その頃に、姉に子どもが産まれたけど、たしか「おめでとう」も言えなかった。

・・・そこからじわりじわりと復活をして、その2年後、姉が2人目の子どもを身ごもった。

里帰り出産をするタイミングで、僕も1ヶ月ほど地元に帰省。(当時は東京に住んでいた)

その頃に、「子どもの笑顔は周りを幸せにする」という感覚を抱いたことを今でも心に突き刺さっている。

あれだけ仲が悪かった家族も、子どもが笑ってくれるだけで、家庭内にやわらかな雰囲気が漂った。

相も変わらず親同士は喧嘩していたけれど、同じ屋根の下で暮らす者同士が喧嘩ばかりしていることの悪影響を、あらゆる伝え方で、僕は何度も必死に伝えた。

僕自身が子どもの頃に、親の喧嘩を見たあとは不安定になって部屋の壁に穴を空けたこともあったりと精神的に不安定になった時期があったからこそ、子どもの発育に関して勉強を重ね、訴えかけた。

すると、子ども(姪っ子たち)のおかげで、家庭内に温かな雰囲気が醸され始めたんだ。

この機を逃してはいけない!と、僕はその時に「子どもの笑顔を守ること」を決心した。

自己犠牲や利他の精神というよりも、それこそが自分のためになるし、家族のためにもなると思ったんだ。

自分が親になる予定もないのに、子育てについて勉強したことで、「子どもの笑顔を守るためには、ママとパパが笑顔でいる必要がある」と悟った。

子どもが素直に笑って、自分らしくあるためには、親自身が、自分の笑顔を大切にしている必要がある、と。

姉の子育てを手伝っている時に、姪が僕に対してどれだけ懐いてくれたり、楽しい時間を過ごしていても、突然「ママは?」と聞かれて、いないと分かると、泣いてしまうことがあった。

幼少期の子どもにとっては、ママやパパという『愛着者』の存在が、この世界を自由に冒険するための『安全基地』として機能する。

そうして心が繋がっているからこそ、ママやパパの元気がなければ、子どもにも簡単に伝わってしまう。

嘘をついて、無理して笑っていても、見透かされてしまう。

親と心が離れたと感じた時に、子ども自身も、自分を見失ってしまう。

・・・けれど、ママやパパが心から楽しそうにしていたり、自分の人生を豊かに過ごしていれば、子どもだって心から笑顔でいられる。

たとえ仕事で帰りが遅くなっても、「遅くなっちゃってごめんねー!」と、懸命に子を想う姿勢を行動で示せば、子どもだって安心して自分を生きられる。

親が子に与えたがるのは愛情だけれど、子が親に求めているものは安心感だ。

子どもだって、自分のことを大切にしてくれている親のことを心から心配していて、その姿を見て安心したい。

親が子どもを愛しているからこそ心配するように、子も親を愛しているからこそ、心配している。

そこに必要なのは、親自身が「私(たち)は私(たち)で大丈夫。幸せだよ。」と、嘘偽りない表情や態度で子どもに示すこと。

辛いときは、辛いと正直に伝えて頼ること。

そうして親が心豊かに人生を過ごしている姿を見ると、子どもだって幸せを感じるんだ。

子どもは元々親の一部だけれど、成長し、自立して、親から離れていくのが自然。

一方で、親が「自分らしさ」を見失ってしまうと、その心の穴を、子どもで埋めようとすることもある。

元々は自分の一部だったから、必要として、彷徨ってしまう。

そして、親は子どもに「自分と同じであること」を求めたくなるのに、子どもは「親とは違う自分」を受容していかないと自立できない、という親子のジレンマがある。

だけど、親と子が別々の「自分」になれて、違いを受容し合えたからこそ…

そこで改めて『同じ部分』があることに気づき、相手を好意的に受け入れ、心から愛することができる、という希望もある。

親孝行の「孝」には、子が親を想う際に自然と芽生える、親への情愛という意味がある。

けれど、「親と同じであること」を親から求められているうちは、『親と同じ部分』を否定的に捉えてしまいがちで、親の性格と正反対の人に恋をしたり、親が反対しそうな仲間と付き合って、反抗することだってある。

これは逆説的だけれど、、、

親孝行の気持ちとは、親が子に愛情を注いだ時に芽生えるものではなく、「自分は親からたくさんの愛情を注いでもらっているんだ」と”子ども自身が”気づいた瞬間に自然と芽生えるものだということは、決して忘れたくない。

・・・さて。

独身の分際で子育てについて語ったけれど、子育てから学ぶことは本当に大きいと感じている。

地元の新潟で2人の姪と過ごした6年間は、とてつもなく欠けがえのない時間になった。

ちなみに、「としくん(僕のこと)は、ほとんど大人だよね〜」と、姪から的を得たご指摘を頂戴したことがある。

彼女らにとっては、大人と子どもの間にいる存在に見えたのだろう。

それを聞いて、僕は嬉しかった。

子どもから見た『大人』とは『親』のことであり、僕は親の代わりをするのではなく、親にはできない役割を全うしようと決めていたからだ。

そして、僕はたまにしか子どもと過ごさないから、毎日子どもと一緒に過ごしている親御さんたちを、心より尊敬している。

そして、親ではない僕にも、ひとりの大人としてできることがある。

それは、目の前の人が自分らしく生きられるように『水鏡のような役割』を担うことだ

あなたが光だとすれば、僕は水。

あなたの魅力を映し出し、鮮やかに彩りつつ、僕自身も、共にしっとりと輝いていたい。

僕があなたを光らせるわけではなくて、あなたが光っているから、僕も輝くことができる。

光を反射して鮮やかに彩る性質が、水にはある。

それはつまり、、、

温かな交流を通じて、僕の魅力を引き出してくれたあなたも素敵だし、あなたの魅力を映し出した、自分もスゴい!

・・・ということを、行動で示し、言葉と写真で紡ぎ、伝えていきたいということだ。

だからこそ僕は、軟水のようにやわらかく生きながら、子どもの笑顔を守ることへ繋がるような選択をして、心豊かに生きていく。

あなたの笑顔は僕にとっての光だから、僕が輝くためにも、必要なんだ。

だからこそ、あなたが心から笑顔でいられることを、これからも願っているんよ。

・・・読んでいただきありがとうございます(*^^*)

━━━━━━━━━━━━━━━
【軟水のたそがれ】
━━━━━━━━━━━━━━━
このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
※毎週日曜日の夜に更新!

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています!

ゆらりときらめく水鏡のように
他者の魅力を鮮やかに彩る存在でありたい

サポート頂いたお金は、今後も心豊かなnoteを書くための経験や他のクリエイターさんたちへのサポートに回していきます!温かな循環を回していきたい。