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僕らの普通は同じであってほしいけれど

「普通はこうするよね?」

「あの人は普通じゃないよね」

・・・こういった言葉を交わすことに、はたしてどんな意義があるのだろうか。

僕らが『普通』という言葉を発する際には、身の回りで当たり前に行われている、『普段通りの言動や振る舞い』を頭の中でイメージしているはずだ。

だからこそ、『自分にとって普通なこと』は誰にでも存在している。

しかしながら、「自分にとっての普通が他者と同じであるとは限らない」という当たり前の事実に、気が付けないことも多い。

それは、「普段と違うことを考えるなんて面倒だ」という、余裕の無さからくる思考停止が原因になっているのかもしれない。

普段通りじゃないことへ対応するのは、予測可能性が低く、決して楽ではないからだ。

また、そのような怠惰な理由だけではなく…

「アナタとワタシの普通は同じであってほしい」と願う、親愛なる関係欲が原因になっていることもあるのだと思う。

何かのきっかけでスキが重なって、親しくなれた相手だからこそ、互いの『普段通り』が交わり続けてほしい…という切なる願いだ。

ただし。

「繋がりたい」と願う、親愛なる関係欲とは裏腹に、普通であることを相手に求めるその姿勢には矛盾が生じてくる。

自分と相手のスキが重なって、「僕らは同じなんだ」と確認できた時に関係は始まるけれど、親密さが”深まる”のは、『自分にとって普通じゃないこと』を、共に体感した瞬間だからだ。

「自分と相手の普通は違う。でも、なんかスキだな…」と身体で感じ、記憶に留めることができた瞬間に、関係は深まるのだと思う。

僕らの繋がりを深めたのは『普通じゃないこと』なのに、繋がっているからこそ、『普通を求めてしまう』という矛盾だ。

・・・実際、人と人はそう簡単に繋がることはできない。

「普通はこうだよね!」と、『普通』というありふれた常識感が交わった時に、僕らは繋がりを感じやすいけれど…

普段の言動が合わなくなったり、普段の活動エリアが変わったり、普段通りがすれ違っただけで、その繋がりは解けてしまう。

普段通りじゃない振る舞いには、予測不可能な出来事が多々あって、決して楽ではないけれど、その分、思いがけない閃きや持続的な一体感を味わえるという”楽しさ”が待っている。

『普通』という言葉は、「僕にとっての普通は、こうだな…」と、今現在の自分にとって常識的な認識を内省するためには、とても実用的だ。

それを受容した上で、「だったら、普通じゃないことをしてみよう!」と、普段通りから逸脱することで新たに触れる世界や、視野を拡げることに意義があるのだと思う。

自分にとっての普通はこうなんだなと、視野を狭くし、普通じゃないことをしてみよう!と、視野を広くするという、視野を広くも狭くもできることに大きな意義がある。

普通とは『常に認識していること(常識)』であり、それはいつしか、周りの認識と同化してしまう。

普通は、普通でしかないんだ。

主体性をもって『普通じゃないこと』に踏み出さないと、自身のウチ側からソトへ向かって湧き出るパワーは、いずれ枯れてしまうのだろう。

・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
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ゆらりときらめく水鏡のように
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