ハッピーは自分だけのもので誰かと通じ合ったらラッキー
「幸せはいったいどこにあるんだろう?」と、探し回った経験はないだろうか?
青い鳥症候群のように世界中や日本中を旅してみたり、仕事を転々としてみたり。。。
【青い鳥症候群】
フランスの作家メーテルリンクの童話「青い鳥」の中で、主人公のチルチルとミチルが幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、意外と幸せの青い鳥は身近にあることに気付かされるという内容から、「今よりもっといい人が現れる」「今よりもっといい仕事が見つかる」と、現実を直視せず根拠の無い「青い鳥」を探し続けること。
幸福を探し求めて人生を流れてみるけれど、、、
実際は思いのほか身近なところに幸福はあるのに、僕らがその幸福を見出す洞察を持っていないか、幸福を感じられない生き方をしているだけかもしれない。
・・・ところで、どんな時に幸福感を抱くのかは人それぞれ違う。
では一人ひとりの幸福と社会全体の幸福は、はたして両立するのだろうか?
イギリスの学者ベンサム(1748年〜1832年)は、「人間は誰でも快楽を求め、苦痛を避けるものだ」と考えた。
この快楽と苦痛の感覚こそが幸福の基準であり、その原則に則れば、快楽の増大に役立つものが善、快楽を妨害し苦痛をもたらすものが悪だ。
・・・これを功利主義(こうりしゅぎ)と呼ぶ。
この考え方に則れば、個人の幸福が多くなるほどに社会全体も幸福になっていくはず。
ただしこの幸福を”量”だけで捉えていると、本質を見失ってしまうかもしれない。
現代社会では誰しもが、手軽にささいな快楽を得ながら苦痛を避けることができるようになった。
スマホゲームでガチャを回せば、レアキャラを引き当てたというささいな快楽を得て、出なければ課金をしたり他のゲームをして苦痛を回避すればいい。
リコメンドで次から次へと流れてくる動画コンテンツを消費して、気に入らない箇所は飛ばせばいい。
さらに、世間から叩かれている人へSNSで石を投げれば簡単に当てることができて、ささいな快楽を得られる。
そこで反撃を食らったりさらし首に遭って苦痛を味わいそうになれば、アカウントを消すこともできる。
人によっては信じられないかもしれないけれど、SNSによる批判や誹謗中傷は、その石を投げた人にとっては間違いなく『快楽』になっているんよね。
「そんなことしたってしょうがないよ、建設的じゃない」と言いたくもなる。
だけどもしかしたらその人は、普段言いたいことを言えず我慢することが正しいと信じ、発散する場所を探しているだけかもしれない。
言いたいことを溜め込むって『苦痛』だから、、、
それを避けるためにSNSで石を投げるという短絡的な手段を選んでしまうのは、その人が根っからの悪人だからではなく、世界中がネットで繋がれるようになったという環境が生んだ歪みなんだと、僕は思う。
・・・僕ら一人ひとりは、多種多様な幸福感を消費している。
個人が抱くことのできる幸福の”量”は、社会の発展と共に増大しているのかもしれない。
しかしそれは、社会全体の幸福(最大多数の最大幸福)に、はたして繋がっているのだろうか。
利己的に快楽を得られる手段が増えた一方で、知らぬ間に他者へ苦痛を与えてしまう機会も増えているのでは?
ベンサムは、社会全体の幸福という公共の利益を守るために必要なものは『制裁』だと考えた。
刑罰などの法律的な制裁や、利己的なことばかりしていればいずれ周りから助けてもらえなくなるという自然的な制裁、反社会的と非難を受けるような道徳的制裁だ。
現代では、ネット社会が変化するスピードに法の整備がなかなか追いついていない。
そして、反社会的な行動をしてしまった人に対する道徳的な制裁に「匿名のアカウント」という分人が加担していくことで、制裁という苦痛を伴う行動すらも快楽の一つとなってしまっているのが現状だと、僕は寂しく感じている。
匿名で投稿すること自体は自由だし、それを禁じてしまえば、権力側から圧力をかけられた時にまともな批判や弾劾をすることが難しくなってしまうという問題もある。
ただし、匿名のアカウントを「信頼のおける一人の個人」とはみなせないのでは?とも思う。
・・・快楽を量的に計算することは現実的ではなく、もっと大切なことは快楽の”質”だ。
ベンサムの功利主義を引き継いだJ.S.ミル(1806年〜1873年)は、質的功利主義を唱えた。
「満足した豚よりも、不満足な人間の方がよい。満足した愚か者よりも、不満足なソクラテスの方がよい。」
ミルが残したこの言葉は、人には人間らしい品位を保ちたいと願う『尊厳』の感覚がそなわっているということを言い表している。
尊厳とは、人間は人間として生まれたことに価値があり、同じ人は二人といないし、そうした個性には究極的な価値があるという考え方。
勇者として冒険に出る人も、賢者として知識を授ける人も、芸術的な踊りや歌声や絵書きで心を掴む人も、回復役として他者を癒す人も、それぞれに価値がある。
質の低い快楽で満足して妥協するよりも、質の高い精神的な快楽を求めるところに、人間としての尊厳がある。
スマホゲームのガチャでレアキャラを引いて一人で盛り上がる快楽よりも、他のプレイヤーと一緒にオンラインプレイをして自身のキャラクターを全うしたり、どうぶつの森に集まってお互いの日常をシェアする方が、同じゲームでも快楽の質は高い。
他者を批判したり芸能人の不倫を咎めるツイートをする快楽よりも、自分のスキをツイートして共感した人と繋がったり、お互いの挑戦を応援し合うようなSNSの使い方の方が快楽の質は高い。
「人間は誰でも快楽を求め、苦痛を避けるものだ」
他者に苦痛を与えるのではなく快楽を与えながら、自身の快楽を求めていくことが大切で、他者の幸福をはかることこそが自己の幸福にも繋がっていく。
次第にそれが”私たちの幸福”へと一致していくように、質の高い快楽を求めていくことが社会全体の幸福へと繋がるはずだ。
ただし現代では、『幸福感』が多様化しているということも忘れたくない。
動画を観るよりも本を読む方が、深い学びになって快楽の質が高い!と感じる人もいるだろう。
しかし、つまらない本を読むくらいなら中田敦彦のYouTube大学を観た方が好奇心をくすぐられて、もっと深く知りたくなる!という質の高い快楽を得る人もいる。
世の中に溢れる情報量が圧倒的に増えた現代では、質の高さも単一ではない。
自分の好みや趣向とどれだけ深く結び付いているか?という嗜好性や、どれだけ密にコミュニケーションできるか?という双方向性によって、質を高めることが可能になっているからだ。
こうしたクオリティの変化は、人間の個性には究極的な価値があるという『尊厳』にも関わってくる。
「自分にとっての幸福が必ずしも他者にとっての幸福になるとは限らない」という現実は、しっとりと受け入れていきたい。
これは、快楽を満たす手段が多様化した現代だからこそ見えてくる新たな課題感でもあると、僕は思う。
・・・最後になるが、ミルは「幸福は副産物だ」と考えた。
「幸福を直接の目的としない場合に限って、その目的が達成されるのだ」
僕らは少し油断すれば、ささいな快楽をたくさん集めることに流され、その幸福感が細く長〜く続くことを望んでしまう。
その方が、楽だから。
だからこそ…
純粋に好奇心が踊るものや快楽が長く持続するもの、そして心が豊かになるような質の高い快楽を求めていくことが、より深い幸福感を得ることに繋がっていくのだろう。
自分を満たすことで快楽は得られるが、長くは続かず、たくさんの量をこなさなければ幸福感は満たされない。
「自分を満たしながら目の前の相手を満たし、お互いを満たし合う」という最大公約数的な幸福感を、まずは1vs1で築いていくことが大切なんだと僕は思う。
そうして2人で育んだ幸福感を大切にしつつ、その人とは違う相手との間でも新たな幸福感を築き上げていくように、個人が抱く幸福感に多様なグラデーションがあってもいいはずだ。
そのためには自分を深く知ることが大切で、幸福感がアップデートされることで、様々な他者との間に濃密な共感が育まれていくのだろう。
さらには、自分の好きなことに共感してもらえたら嬉しいけれど、こちらから他者に共感を求めることはしないという流儀も心得ておきたい。
それこそが現代における新たな幸福で、『最小多数の最大幸福』と名付けてみたいと思う。
自分のスキに1人でも共感してくれれば幸せだし、そのペアが数多く存在することで、社会全体における幸福の総和は最大化されるだろう…
と結論付けて、本日は終わろうと思う。
・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)
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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者のツイートを深堀りするエッセイです。
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