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自由と安心と、愛するということ

本日は『愛するということ』について、おもいを綴ってみたい。

僕らが愛という言葉を目にした時に思い浮かべるイメージは、「恋愛」「親子の愛」「親友との友愛」「性愛」「神からの寵愛」など、多岐にわたる。

今回は、どんなかたちの愛であっても共通するような普遍的な愛について、そして『愛するということ』という行動について、考えてみたい。

愛するということは、愛する人(愛したい人)を、今よりも自由にして差し上げることだと思う。

それは、自由な選択肢をコチラから与えるというよりも、相手の選択肢を狭めてしまわないように励むということだ。

新たな選択肢を"本人自らが"探しだすことで、自らの行動を由しとし、己の力で自由の幅を拡げることができるから。

コチラ側(愛することをする人)は、その手助けをして差し上げるという関係性。

「こうゆう自由もあるよ」という選択肢をコチラからわざわざ与えなくとも、愛する相手が「やってみたい!」と言ったことを『否定しない』という姿勢を示すだけで、そこに愛はある。

「なんでそんなことするの?」と考えてしまう、コチラの不自由な思考をやわらかくしようと励むことが、相手を受容する営みになる。

 ありのままの相手を受容しようとする姿勢こそが、『愛するということ』だと僕は考える。

・・・親子の愛を例にしてみよう。

小さな子どもと一緒に食べ放題のお店へ行くと、そこには選択肢があまりにも多すぎて、新しいモノにはなかなか手を出しにくい。

結局、今まで食べたことのあるものを選びがちだ。

「何でも食べていいんだよー」という外から与えられた自由は、「選びようがない」という不自由を生み出すこともある。

そうして選択肢を与えるよりも、子どもが自ら考えた自由なアイデアを否定せず、選択肢を狭めないことの方が、相手の選択肢を拡げることに繋がっていく。

例えば、何度も食べたことのあるバニラアイスとチョコアイスが食べ放題の選択肢として並んでいた時。

「いつものおやつは1つずつしか許してもらえないけど、今日は2つ一緒に食べてみたい!」

「いつもはご飯を食べた後にアイスだけど、今日はご飯の前に食べてもいいよね?」

…というような、子どもの新たな欲求や気づきが芽生えるかもしれない。

さらに、「バニラとチョコ以外にもこんなに種類があったんだー!」という発見から好みの幅が広がって、本当に好きなモノを見つけるかもしれない。

その際に、「ストロベリーもマンゴーもあるよー!」という選択肢を大人がわざわざ与えなくとも、子どもから自由なアイデアが飛び出した時に、否定せず、それが実現するように支えることで、子どもの選択肢は自然と増えていく。

モノの良し悪しを周りから諭されるよりも、自分の好奇心が反応した時の方が気持ちがいいし、そのモノへの愛着も深まっていく。

それは時に『偏愛』として、周りとは違う唯一無二な価値として、個性を形成していくだろう。

それこそが、相手が以前よりも自由になることができた瞬間だし、親からしても、「ウチの子はバニラとチョコが好きだったけど、もっと好きなものを見つけて成長したんだな」という気づきもあり、親自身の思考がやわらかく、より自由になる。

今まで知らなかった相手の一面を受け入れ、相手の”今まで”ではなく相手の”これから”を信じて認めるという『信頼』の姿勢こそが、愛するという行動に繋がってゆく。

その姿勢こそが『愛するということ』だと僕は思うし、自分自身の心や思考もやわらかくなって、お互いがより自由になっていくはずだ。

愛することをコチラから始め、相手が自由になり、相手もコチラのことを愛し始めた時、お互いがより自由になってゆく。

きっとこの状態が「愛し合う」ということで、「I love you(私はあなたを愛している)」の段階から、「I'm in love with you(私はあなたとの愛の中にいる)」の段階へと、愛が深まってゆくのだろう。

時に、相手が望む以上のものを与えようとしてしまうのは、愛する姿勢というよりも『自分が愛されたい気持ち』の現れであったり、これだけ与えることができる自分という存在の自尊心を保ちたいからだと思う。

自分に自信を持てずに渇いている時ほど、愛する人(愛してもらいたい人)に愛情を注ぐことで、自分自身を満たしたくなるものだから。

ただし、僕らは愛する相手に対して『愛情』を注ぎたがるけれど、その相手が本当に愛を実感する時は、愛情を注いでもらったと自覚した時ではなく、自分が自分でいられる『心理的な安全性』を得られた時だ。

受容してもらったことで居心地のよさを感じ、自らが望む生き方をより深く信じることができて、「ワタシの未来は輝かしいものになるはずだ…!」と、誇りを持てる時だ。

僕らはその愛を土台にすることで、自らを由し!と信じ、大空をはばたくような自由を謳歌することができるのだと思う。


・・・ただしそうは言っても、自分だって、愛されたいはずだ。

そう。

僕らはきっと、愛されたいんだ。

「あなたがいい!」って、選ばれたいんだ。

そうした本音や真心を持っているからこそ…

愛されたい気持ちを奥に隠しながら、愛する姿勢を示そうと愛するフリをして、「自分はまるで大丈夫ですよー」と強がっていると、心はどんどん渇いていってしまう。

それよりも、自ら相手の奥へ入っていこうとする勇気や、相手がコチラの奥を見ようとしてくれた時に、それを受け入れる勇気を持っていたいなと思う。

互いの”奥”を知れば知るほど、彷徨うこともあるかもしれないけれど、その先には必ず自由が待っているはずだ。

相手の奥を辿ることやコチラの奥をさらけ出す勇気を発揮して、「自ら由し!」とすれば、それこそが自由だ。

何もせずとも周りが与えてくれるのは『安心感』であり、それは自由とは正反対のもので、そこには「自由になりたい!」という自らの意志が必要だ。

安心という心地よさは大切だけれど、そこにこもっていたら、あっという間に不自由な状況がやってくるだろう。

・・・つまり、僕らが自由を望むのなら、ただ今享受している日常から外へ出て、新たな非日常へと一歩踏み出すことが必要だ。

そのためにも、「自分は周りから愛されているから、自由へ向かって突き進んでも大丈夫…!」という、強い意志を発揮していきたい。

『愛するということ』はきっと、その時々で刹那的に深まっていく愛情の重さが重要なのではなくて…

「自分なら愛することができるはずだ!」と、自らを信じ抜くということが大切なんだ。

だからこそ、自分に対する信頼感を、他者を信じて頼り抜く意志の強さへ変えていく力を磨いていきたいと、僕はそう思う。

・・・長くなってしまったけれど、読んで頂きありがとうございます(*^^*)

では、本日はこれで!

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするエッセイです。
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