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自分が譲れないものをハッキリ伝えるという優しさ

今思えば、子どもの頃の僕はとても「自己チュー」だったなと…ふとそんなことを感じた。

あれがしたい、これがやりたい、あれが欲しい、これも欲しい。

そういった欲求に対して、ばか正直に生きていた気がする。

一般的に子どもの興味はすぐに移ろうし、昨日まで欲しい!と言っていたモノをすぐに忘れたり、突然思い出して泣きわめいたりするものだ。

それを大人は「駄々をこねる」と表現したりするけれど、大人になった今の僕には時折、そんな子どもたちの”我儘”が『譲れないものを譲らない姿勢』に見えることがある。

それはまるで、自分を強く持っているかのようだ。

僕たちはいったい、いつどんな時に「自分を失くしてしまった」のか?

学校生活を経て社会人になるにつれて、僕たちは自己チューを卒業して、自分を律しながら他者に配慮することのできる、自己を確立した立派な人間へと成長していく。

・・・はずなのに、例えば職業名や社会的な役割(パパとかママとか)以外で、「自分は何者か」を表現できる人はどのくらいいるのだろう。

自分が『譲れないもの』とは、いったい何だろうか。

「他者に譲ること」も配慮や優しさだけれど、『自分が譲れないことをハッキリと伝えること』も、配慮や優しさの1つの形だ。

一人の大人として、自らの軸になるような、太い芯になるような『譲れないもの』を自覚していないと、それを主張することはできないのかもしれない。

そんなことを思いながら身近な子どもたちと接していると、いわゆる自己チューな子どもたちの方が、大人よりもよっぽど”大人”に見えてくることが多々ある。

「これをやりたい!これはやりたくない!」を明確に主張する姿を見て、人としての強さを感じるんだ。

・・・かといって、自己チューであり続けることが素晴らしい!と、ひたすらに称賛したいわけではない。

自分が世界の中心であるかのような、周りの人が全て自分を満たすために存在しているかのような自己チューさは、とても幼稚だ。

その幼稚さでは、自分の力を他者のために活かすことでお互いの魅力を高め合ったり、社会全体の幸福度を上げることには繋がらない。

"自分だけの世界"が心地よくなるだけだ。

そんな自己チューを卒業するためには、「他者を満たす」という”利他性”を身につけることが大事になってくるなと感じる。

ただしその際に気をつけたいのは、他者を満たすために自分が存在しているわけではないということだ。

・・・唐突だけれど…

きっと心の中には「欲求のコップ」みたいな器があるんだと、僕は思う。

もしその中が水で満たされない状態で他者を満たそうとしても、コップの中はどんどん渇いてしまう。

そこでまず考えるべきことは、自分のコップを潤いで満たすことだ。

それは、自分の好きなことをすることで自らを満たすこともできるし、他者の力を借りて満たすことだってできる。

だけどその水が溢れそうになったら、そこで放って置かないで、他者を満たすために潤いを分け与えることが大事になってくる。

溢れたままにしておくと自らの欲求に溺れてしまい、それは欲望へと変化をとげて、自分ではコントロールできなくなってしまうからだ。

反対にコップが渇いた状態のままで放っておいてしまえば、心に潤いを感じることもなく、そこで他者を満ちそうとしても、無意識のうちに『渇いた優しさ』になってしまうだろう。

心が渇きすぎて、身近で自分のことを満ちそうとしてくれている大切な人の存在にも、なかなか気づけないこともあるかもしれない。

渇いているからこそ、より大きな潤いを求めて、身近にある小さな潤いをスルーしてしまうから…

そしてその器は、他者を使って自分を満たすことばかりしていても、大きくなることはない。

きっと他者と混ざり合うことで、徐々に器が大きくなっていくものだから、そうすることで分け与えることのできる潤いも増えていく。

・・・自分で自分を満たすことができる人もいれば、他者に潤いを分け与えてもらうことを願っている人もいる。

そして親友や恋愛のパートナーといった、お互いに満たし合うことができるような、素敵な出会いが生まれることもあるだろう。

だけどそんな出会いを引き寄せ、その関係をより深く育んでいくためには、自分にはどんな潤いが必要なのか(何に渇いているのか)、自分が分け与えることができる潤いはいったい何なのか。

これをまず知らなければ、難しい。

それはきっと、子どもの頃に持っていたはずの『譲れないもの』にヒントが隠されているはずだ。

子どもは自分が欲しいおもちゃや好きなお菓子を見つけると、「これは譲れない!」という態度を、最初は固辞してくる。

けれど、いったん自分のモノにしてからは、それを自分が信頼する人や大切に想う人に『分け与える』という行動を、自然と選択する。

この行為はまさに、自分の渇きを潤すことを大切にしながら、それを分け与えることで他者も潤すという姿勢そのものだ。

・・・「自己中心性」というものは、自分の内側に収束していくような状態だと、世界の中心に自分がいるような感覚で、まだまだ幼稚なまま。

だけれども、自分という中心から外側に拡散していくような、自分を中心にして世界と少しずつ繋がっていくという姿勢が、とても大切なことだと僕は感じている。

「自分を譲る」という配慮も大切だけれど、そこにスッポリとハマる相手は『譲れないものがある人』だ。

お互いに譲り合っているだけでは、凹凹な関係(ボコボコな関係)になってしまう。

僕らが目指すべきは、凸凹な関係(デコボコな関係)だ。

だからこそ、自分が譲れないものを確認して、ハッキリと伝えることが優しさにもなるし、自己チューを健全に卒業していくことにも繋がるのだろうと、僕は思う。

・・・今週も読んでいただきありがとうございます(*^^*)

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者のツイートを深堀りするエッセイです。
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水はあらゆる流れに身を投じることができるし、自ら流れを作ることもできる。

世の中の動きに流されるのではなく、「主体的に流れること」を大切にしたい。

そんなおもいを込めています。

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