想いが重なる瞬間とは
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【軟水のたそがれ】
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毎週日曜日の夜に更新しています!
新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています(*^^*)
水はその存在が当たり前すぎて、なかなか価値に気づくことができない。
だけど、間違いなく恵みを与えている。
僕の言葉が水のように染み渡るように、思想をやわらかくお伝えしていきます。
・・・本日取り上げるツイートは⇓コチラ!
さっそく深堀っていきましょー!
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「何を思うか」は、自分の内側にあるから自由だし、周りへ完璧に伝えることはとても難しい。
「誰を想うか」の対象は自分の外側にいて、それがあの人のこともあるし、日本や世界中にいる誰かだったりする。
そして案外忘れがちなのは、『自分で自分を想う』こともある、ということ。
今自分が思ったことは、どうして思ったんだろう?何を求めて思ったんだろう?
この「なぜ?」を考えている時は、まさに『自分を想う』状態だよね。
つまり思いが想いへと変わるには、『なぜそれを思うのか?』が大切であって、その理由や目的を忘れてしまうと、「ただ思うこと」しかできない。
思いは自分から生まれて、それが自分の外側へと、じっくり広がっていくものだから。
そして自分以外の誰かを想う時には、必ず自分の「思い」もある。
まずはその自分の思いを想わなければ、自分以外の人へ思いが届くことは、難しいはずだ。
自分の「思い」を知ることができるのは、まずは自分だから。
なぜそう思うのか?という、その理由や目的には、愛や、孤独や寂しさ、美意識などが眠っているのかもしれない。
その根っこにあるものを自覚して、それを含めて伝えようとするからこそ、自分や他者のことを、本当の意味で想うことができるのでは?
『仁』とは、儒教(孔子)の教えで、「人を愛する姿勢」によって人と人の間に自然と生まれる親愛の心。
『さび』とは、心情的な孤独から生まれる、ひっそりとして寂しい境地を表す美的感覚のこと。
『粋(いき)』とは、さっぱりとした、嫌味のないはからいに現れる色っぽさに通ずる美意識のこと。
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誰かのことをもっと知りたいな〜と思った時に、ただただ見つめていたり、周りから話を聞いたりするだけでは、不十分だよね。
それらをふまえて、相手のことを知るために「直接会うことを大切にしている」という人もいる。
・・・ただし、会えさえすれば全てを知ることができるわけでもない。
例えば、その人が本を出しているのに読もうとしなかったり、日々の発信を受け取ろうとしなければ、その人のことをより深く知ることはできないよね。
それって結局、『会えばお互いを理解し合えるはずだ!』と、より深く知ろうとすることを放棄しているのと、あまり変わらない。
見聞よりも面会の方が、感じることのできる情報が多くなってイメージの解像度が上がるから、「直接顔を合わせた方が、より深く知り合える」のは間違いない。
だけれども、事前に調べれば分かることを調べようともしないのは、ホントの意味で『相手を知ろうとしていない』のでは?と、僕は思う。
「会ってみればその人のことが分かるはずだ!」というのは、『自分と接する際の分人の1つ』が分かるだけであって、その他の分人について知ろうとはしていないよね、と。
『分人』とは、個人をさらに分割するという考え方。
「自分はこういう人間だ!」という個性があったとしても、接する相手によっては、その個性とは違う一面が出てきたり、今まで知らなかった個性を知ることもある。
その1つ1つが全て自分であり、あくまでそれは「自分の中にある分人の1つ」であり、分人すべてを足して自分という1人になる、ということ。
・・・分人の1つしか知ろうとしないのはとても主観的な捉え方だし、人間のことを、一面的にしか見えていないともいえる。
人間の性格は、多面的だ。
接する相手によって、色んなキャラクターや表情が出てくるもの。
自分以外の人と接する際には、どんな表情をしているのか?どんな振る舞いをしているのか?
そこへ主観的な分別をできるだけ挟まずに、ただただ、その1つ1つを尊重しようとする姿勢が「知る」という行為であって、そこには『愛』があるよなぁと。
(例えば)
子どもが親に対して見せるキャラクターと、保育士さんへ見せるキャラ、友達へ見せるキャラは、それぞれ違う。
親には優しい性格なのに、あまり親しくない友達には優しくしている様子がない。
それは、我が子の優しいキャラクターを親がうまく引き出しているからであり、我が子のせいでも友達のせいでもない。
我が子が、友達との対人関係の中で優しさを発揮していくかもしれないし、相手の接し方によっては、優しくなれないこともあるかもしれない。
それら全てのキャラクターの存在を認めることが、親の愛なのでは?
・・・自分のことを深く知らなければ、「自分がこう思いたい!」というバイアスに流されて、他者のことを誤解し続ける。
一方で、自分のことをどれだけ知ろうとも、「自分といる時の相手」しか見ようとしなければ、本当の意味でその人を知っているとはいえない。
・・・ただし、自分のことも他者のことも、より深く知ろうとする姿勢があれば、『想いが重なる瞬間』はどこかに必ずあるはず。
その時に初めて、自分の「思い」の1つを知ってもらえるし、他者の「思い」の1つを知ることができるんよね。
それを重ね続けることで生まれる感覚が、いわゆる「阿吽の呼吸」や「以心伝心」と呼ばれるもの。
日本には古くから『察する文化』があるけれど・・・
それはきっと、自分の思いを知ることであり、他者のことを真摯に想うことでもあるのだろうなぁと。
自ら伝えることを軽視したり、他者から受け取ってもらうことを要求するような、『察しろ文化』にはならないよう、自らを、そして相手のことを想っていく。
こういった姿勢が大切なのではないでしょうか。
・・・読んでいただきありがとうございます(*^^*)
Radiotalkにてやわらか〜い話をしています。
今回は『愛』について!
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