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夜霧を晴らす


『安心安全のために』

僕は、このフレーズが苦手だ。


…理由は2つ。

1つ目は、

「誰かを安心させるため」に、自分が存在しているわけではないから。

2つ目は、

「安心すること・安心させることを優先にする」ほどに、他者を信じる必要がなくなってしまうから。

まずは安全を確保し、1人1人の安心感の確保にどれだけ寄り添えるか?が大切だと思っている。

安全を確保するには、まず信じて頼る必要がある。

明るい未来を描けず不安な夜を過ごしていると、僕らは『安心感』を求めるようになる。

これまでと同じ日常や過去の幸せが変わらず続くことを願い、「安心させること」が正義になってゆく。

しかし、安心感を求め続けたその先に昇る朝陽を見て、はたして感動できるのだろうか?

深い夜を越え、朝陽が昇りさえすれば、安心できるのだろうか?

朝陽は毎日昇っているのに、その移り変わりに気がつかず、不安を抱え続け、変わらぬ安心感を望んでしまうことも多いはず。

夜を越え、朝が来ても、不安は拭えない。

けれど、、、

朝陽を眺め温もりに照らされながら、「不安はあるけど、今日も周りに頼って生きるしかない。大丈夫だ…!」と、未来を信じ頼った時にだけ不安は明けてゆく。

・・・ところが、

『自分が安心できる関係性』こそが『信頼関係』なのだと、僕らは錯覚してしまう。

「安心と支配」は、とても近い位置にあるのにもかかわらず。

自分が安心したいがために、相手の自由の幅を狭めてしまい、相手を安心させたいがために、自らの自由の幅を狭めてしまう。

『信じて頼り合う関係性』は、もはやそこにない。

「この先どうなるか分からないけれど、あなたとなら大丈夫!」という心理的な安全性が重要で、それは安心や支配と真逆だ。

信頼感は、不安があってこそ。

安心しているから信頼を置けるわけでは、決してない。

「暗い夜の後には、いつか必ず明るい朝がやって来るはずだ…!」

・・・と、その心理的安全性に身を委ねるからこそ、他者へ信頼を向けることができる。

委ねたら、この先の自分がどうなるかは分からない。

多少の不安はあれど、「この人に身を委ねれば悪いようにはしないはず…」という心理的な安全性はあるから、信じよう。

それこそが信頼を向けるということなのに、『安心』を優先すると、そこに気づけない。

安心しきった状態は心地がよすぎて、自己保身に傾いてゆくから。

自己保身の先に、信頼関係は結べない。

信頼は未来に目を向けるけれど、自己保身は、現状維持と過去のやき回しでしかないから。

安全を確保するために、互いが同じであることを確かめ合うような安心感を求めても、、、

環境が移り変われば、その安全はいとも簡単に流されてしまう。

環境に応じて互いが移り変わることを受け入れるには、信頼が必要だ。

空が移ろいで夜がやって来たとしても、信頼関係さえあれば、共に朝陽を待つことができる。

その関係性こそが、持続可能な安全に繋がってゆく。

『不安』は抱きしめ合うのがいいし、『期待と信頼』は背負い合うのがいい。

だけど、相手が抱えている不安を背負おうとしてしまうと、おし潰されてしまう。

相手からの期待と信頼を抱きしめようとすると、縮こまってしまう。

これらが新たな不安を生み出し、『安心』はいつまでもやって来ない。

互いを支配し合い縛り合って『気休めの安心感』を得ることはできるけれど、そんなものがずっと続くわけない。

「未来に閉ざされて」しまうから。

しかしながら、他者と抱きしめ合うことで、不安を拭えて、共に夜を超えられる。

そして朝が来れば、他者からの期待と信頼を背負って、未来へ目を向けるしかない。

つまりは、信頼関係があれば、夜霧を晴らすことができる。

だからこそ僕らは他者を必要とするし、自分が存在する意味も芽生えてゆく。

自分も相手も「誰かを安心させるため」に在るのではなく、「不安を抱きしめ信頼を背負うため」に在るべきなんだと、僕は思う。

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他者の日常を想像し、共に、非日常を創造したい。

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・・・読んでいただきありがとうございます(*^^*)

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