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多様性の中に飛び込むための共感力

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【軟水のたそがれ】
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毎週日曜日の夜に更新しています!

この【軟水のたそがれ】は、

Twitterで更新している「#軟水のつぶやき」を中心とした筆者自身のツイートを深掘りするエッセイ。

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています(*^^*)

「#軟水のつぶやき」は、かつての僕自身が悩み抜いてきたことや感じきってきたことを、自分の頭や心にしまっておくのではなく、しっかりと「言葉にして伝わりやすく発信しよう」という理由から始めました!

・・・本日取り上げるツイートは⇓コチラ!

さっそく深堀っていきましょー!

■自分の感情を犠牲にしない感情移入

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ちなみにコチラのツイートは、僕自身の振る舞いから感じたものなんです。

ちょっとイラッとくることがあって、自分の感情に正直でいようとしたのだけれど…

それだけに留まらず、他者の感情をおざなりにして、自分に都合よく他者を動かそうとしてしまったんですね。

怒りを誘発した存在がたとえ他者の行動であったとしても、その怒りを自分で感じるだけでなく他者に向けることで、雑なコミュニケーションを図ろうとしていたなぁと反省しました。

「自分の感情をしっかり感じること」はとても大切なことなのだけれど、

その一方で、

自分とは違う感情のことを想像し、理解しようとすること』も大切なことだと、僕は思うのですね。

ただしこれは、自分の感情を犠牲にしたりおざなりにしてしまうと、上手くはいかないものだから、難しい。

他者のことを想ってその感情を自分に移入しようとするけれど、「自分の感情は何なのか?」をまず感じていないと、他者の感情に染まるだけになってしまう。

それは、ホントの意味で『他者の立場を理解すること』ではないんだよね。

「自分と他者が抱いた感情は違うんだ」ということを確認する必要があるのだから、まず自分の感情を知らないと、違いを見出すことができない。

自分と他者が同じ感情を抱いていたことを確認するための感情移入もあるけれど、その違いを確かめるための感情移入があってもいい。

難しいかもしれないけれど、僕はそこへ踏み出していきたい。

■感情の同質性と多様性

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人は怒りや喜びを感じた際に、自分と同じような怒りを覚えていたり、共に喜んでくれる人がいると、心地よくなっていくもの。

いわゆる『共感(シンパシー)』で繋がって、その関係には「感情の同質性」がある。

シンパシーで繋がっている状態は気持ちがいいから、そこに留まっていたくなるし、新たなシンパシーを求めに行くこともあるだろうね。

この人とは怒りで繋がったけれど、別の人とは喜びで繋がりたいし、もっと喜びの輪を色んな人へと広げたいし、たまには悲しみでも繋がりたい。

また、自分にとっては喜びの感情が心地いいから、喜びを共有できる人とだけ繋がりたい、など様々だ。

こうして、自分の感情に自然と同情してくれる相手と、繋がり続けていく。

ただその心地よさ故に忘れがちなのが、「そこに感情の多様性はあるのか?」ということ。

他者の感情を優先してしまったり、他者からの評価を気にして自らの感情に嘘をつくようなことは、したくない。

だから、自分が感じたことを大切にして、そこに自然と共感を抱く人との関係性が広がっていく。

それは、とても素敵なことだと思う。

・・・ただ、どんな時にも『自分とは違う感情を抱いた人』や『自分とは違う立場の人』は存在する。

その人に対してシンパシーを感じないのであれば、自分の感情に正直で、それはそれでいい。

ただ、自分はこう感じたけれど、「自分とは違うあの人は何を感じたんだろう?」と想像し、コミュニケーションを通して、理解を深めることはできる。

自ら一歩を踏み出せば、できるはずだ。

人には多様な感情があるということを知って、理解を深めていくという作業。

そしてこの能力は、「自分とは違うタイプの人への理解を深める」ということに役立つだけではない。

人には喜怒哀楽と様々な感情があるから、”誰か1人”の内側にある多様な感情を認めて、受け入れていくという、『他者を愛する能力』でもあるわけですね。

自分が喜んでいる際に共に喜びを感じている人がいると、シンパシー(共感)を感じる。

同じ感情を、共に感じたから。

一方で、同じ出来事に対して片方は喜び、片方は悲しみを感じるというような、異なる感情を共に感じていることもある。

(例えば)
スポーツチームの選手やサポーターは、試合終了と共に両チームの感情が正反対になる。

同じ出来事を共に観ているにも関わらず、抱く感情は多様だ。

しかし試合が終わりノーサイドになれば、相手チームやそのサポーターが抱いているであろう感情を尊重しようとするし、仲が深まることもあるだろう。

このように、異なる感情を共に感じることで深まる絆は、間違いなく存在する。

一見すると、同情を分かち合うように、シンパシーを共に感じる回数を重ねることが”愛”だと感じるかもしれない。

けれど、自分と同じ感情ばかりを追い求める過程で感情のすれ違いが重なれば、その愛や絆はもろくも崩れ去ってしまう。

相手は自分と違う感情を抱いたみたいだけれど、それはどんな感情だったんだろう?と想像し、相手の中にある多様な感情を理解しようとする姿勢こそが”愛”なのではないか?と思うのです。

『異なる感情を、共に感じるという共感』があってもいい。

■【さいごに】シンパシーとエンパシー

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自分の感情を大切に扱っていると、他者からの自然なシンパシーを引き寄せていくものだよね。

「私もそう感じたー!」という同情や、「それ分かるわ〜!」という理解を示す共感。

そのような、お互いの同質性を確認する行為を示す共感とは別に、「自分とは違う他者のことを想像し、理解しようとする」という共感もある。

それが『エンパシー』だ。

シンパシー(sympathy)とエンパシー(empathy)は、どちらも”共感”を示す英単語だけれど、そこには明確な違いがある。

シンパシーとは、自然と共感の気持ちを抱いている「状態」を示す言葉。

一方でエンパシーとは、自分とは異なる感情を抱く人や別の立場に立つ人のことを想像する「能力」だ。

シンパシーは、自分の感情に正直でいれば、自然と湧き上がってくる。

ただエンパシーは、自分の感情を大切にした上で、その感情を一旦脇に置いておかなければ、身につかない。

「自分とは違う感情を抱く人が、その人なりに感じていること」を想像するという作業が必要で、それは自然に起こる状態ではなく、自らの努力で伸ばしていく能力だ。

・・・他者の感情に流されて自分を失くしてしまうよりも、まず自分の感情をしっかりと感じきった方が、自分のことも他者のことも大切にできるはずだよね。

ただ、そうして繋がったシンパシーの心地よさに流されていくと、その時々における自分の感情だけを絶対視するようになってしまうかもしれない。

自分の感情が一言で言い表せないくらい、ぐるぐると目まぐるしく回るように、他者の感情も多様性に溢れているはずだ。

シンパシーで心に深く突き刺さったような、同質な感情から始まった繋がりをベースにして、異質な感情への想像を膨らませ、交流を図っていく。

それこそが自らの多様性を広げる作業であり、1人の人間の内側にも多種多様な感情が存在することを受容していく能力が身についていくのだろうと思う。

やはりこれは「人を愛する能力」と言えるかもしれない。

そして、その”1人の人間”には、当然”自分”も含まれていて、自分の内側にある様々な感情のことを受け入れていくという自己受容にも繋がる。

これは「自分自身を愛する能力」にも通ずるものだよね。

だからこそ、自分にも他者にもどんな感情があってもいいけれど、その感情と向き合うことを忘れずにいたい。

今宵はこんなことを、たそがれてみた。

・・・読んで頂きありがとうございました(*^^*)

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