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はたして僕らは渇く前に溶け合えるのだろうか

「自分や相手を想いきることに誠実でありたい」と、僕は志している。

まだまだ発展途上ではあるのだけれど…

淡々とした日常に冷たく流されてしまわぬよう、感性を研ぎ澄ませておきたいのだ。

だからこそ『自分以外の人を想う時間』を、忙しない日常の中に留めておきたい。

日頃からどれだけ他者を想っていたとしても、実は自分の想いを相手に投影してしまっているだけ…ということが多分にあるからだ。

それは自分の心を相手に重ねているだけで、『相手の心を自分の心に映す』ような営みとは少し違う。

自分の感性は大切だけれど、"自分だけ"の感性になってしまわぬよう、他者と感性を共にすることが必要だ。

周りを信じ頼ることをせず、自分が感じたことを他者と共有することから逃げていた、かつての自分に言い聞かせてやりたい。

だからこそ、共に同じことをするという『共同性』がカギになる。

例えば、家族揃ってUNOをしてみたり、仲間でBBQをしてみたり、パートナーとお散歩をしてみたり…

そうした時間ほど尊いものはない。

そして、同じことを共にしていても「感じていることは人それぞれ違う」という前提は忘れたくない。

同じことを共にしていても、別々のことを感じていたっていいし、それが自然だからだ。

各々の感性が共にあることを分かち合う『共感』の姿勢が、僕らの関係性を彩るのだと思う。

その反対に、同じ共同体の仲間同士で「共感を示す」のではなく「共感を求める」ことを始めると、関係性は浅くなってしまうだろう。

「共感を得ること」と「共感し損なうこと」に溺れ、損得勘定の繋がりになってしまうからだ。

しかし、絆は損得を超えたところにしか結ばれない。

共同の体験を通じて滲み出た、感性のほころびをキツく結びたい。

さらには、「相手の心に映っていることと同じことを、自分の心にも映そう」とする『同感』の姿勢が、僕らの関係性を溶かしていくのだろう。

例えるなら、『共感』の関係性はまるでサラダボウルのよう。

レタスやトマト、ブロッコリーやパプリカなど、個々に魅力のある野菜がボウルの中に盛り付けられ、彩り豊か。

ドレッシングがかけられ、サラダという共同体の中にある個々の野菜が同じ風味になりつつも、「別々の食感が共にある」という状態が『共感』だ。

そして、『同感』の関係性はドレッシングそのものになるだろう。

野菜それぞれの魅力が溶け合い、融合している状態のこと。

100%同じにはなれないけれど、自分の感性を脇において、相手そのものに成りきろうとする姿勢だ。

互いの感性が溶け合うには、一緒に散歩をしながら少しずつ歩幅が合っていくような歩み寄りが必要になるのだと思う。

・・・と、ここまで色々書いたけれど、もはや理屈なんてどうでもいい。

おそらく僕が渇望しているのは、『溶け合うような関係性』なのだろう。

サラダボウルのように彩り豊かな関係性も素敵だけれど、もっともっとメルティーな関係性を求めている。

「相手と同じになろうとする」のではなく、相手の抱く感情が自分の中にあると感じられるくらい、溶け合いたい。

喜びだって痛みだって、共有したい。

しかし、僕はまだまだ自分の感性を依怙贔屓している。

誰かと一度は溶け合えた気分になれても、嬉しさゆえに熱を加えるのを忘れてしまう。

冷めて固まった状態では、溶け合えないのに。

だからこそ、自分だけの感性に溺れてしまわぬよう、他者と交わりここではないどこかを目指したい。

僕は昔から、ひとりでいることが多かった。

放っておいてもらった方が、自分だけで感じていた方が、楽だからだ。

けれど、僕の中の『渇き』は溶け合うことを望んでいる。

今、僕の心は干上がっておらず、充分に満ち足りているし、他者を潤す余力もあるけれど…

自らの『渇き』をさらけ出すことから始めたいと、そう考えている今日この頃だ。

そして、他者の渇きを潤せるような非日常を創造したいと、そう強く願う。

・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)

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【軟水のたそがれ】
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このnoteは筆者の思想を深堀りするフォトエッセイです。
※毎週日曜日の夜に更新!

社会心理学の観点から、感じたことを綴っています。

新たな1週間が始まる前に、何か大切なことに気がつくキッカケになれば嬉しいなと思っています!

ゆらりときらめく水鏡のように
他者の魅力を鮮やかに彩る存在でありたい












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