「わたしの伝える道」という壮大なテーマ-仏教井戸端トークにて-

そういえば…コロナ禍の間、執筆依頼をいただきました。
執筆ってなんだかかっこいいですね(笑)
そんな、私なんて…と思いつつ、せっかくいただいたお話なので…と僭越ながら「わたしの伝える道」という壮大なテーマで書かせていただきました。
生臭坊主といわれかねない文章を受け入れてくださった増田さんには本当に感謝したい(笑)ありがとうございます。

仏教井戸端トーク ※こちらのサイトで紹介いただいています。

お寺のひとり娘として生まれてきたわたしは小さいころから受け入れられているようで受け入れられていない違和感を感じていました。地域の方から良くしてもらっていたしご門徒さんのおうちにも遊びに行かせてもらっていました。地域のいろんな方と触れ合う機会が多く、かわいがってもらっているのはとてもありがたいなといつも思います。

しかしその一方で
「なぜ男の子を生まないんですか?」「男の子ならよかったのにね」
という言葉を聞くこともありわたしという人間ではなくわたしの人生の先にいる旦那さんと呼ばれる人を求めているのかと思うようになりました。それが悔しくて男の子がやるべきことは率先してやるようにしていたらあの子は前に出ることが好きな子だからというカテゴリーに入れられてしまいました(笑)。男性になりたいと思っているわけではないけれどそのままでいいとは思えず「そうなれない悔しさ」みたいなものをずっと抱えていて、理想ばかりが大きくなっていったように思います。

■そうなれない悔しさ
これは性別だけの話ではなく、僧侶である自分にも通じてきます。
最近わたしの活動をおもしろがってくださる方に出会えて、いろいろな方とお話しをする機会が増え「なんでそんなことしてるの?」と聞かれることが多くなりました。正直分からないんです。分からないからいろいろやってみて、体感して行くことしかできなくて。やるべきことが決まっていたらそれしかやらないかもしれません。だけど浄土真宗は教えはあってもイメージされる修行というものはなくて、なにをもって僧侶なのかということが今も分からずにいます。先輩僧侶の法話やおつとめを聞いてすごいなって思いながら「不完全な自分にはできないな」っていつもどこかであきらめてしまっているんです。

自分が目指す「理想」があって、そうなれない自分を見るのが嫌でずっと逃げ続けていたんですよね。今も向き合うのがとても怖いし逃げていると思います。そうやって自分を守りながら傷つかないように自分を肯定して行く方法を探していたら延長に今があるというイメージです。

■逃げた先にあった「オンライン数珠つなぎ読経」
オンライン数珠つなぎ読経 ※現在休止中

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コロナウイルスの影響で企画していた「レトルトカリー寺」や毎月開催していた「尼僧酒場」が実施できなくなり、なにかできることはないかと考えていました。オンラインでの活動に移行していくなかで、変わっていくけど変わらずに大切なものはなんだろうと考え、たどりついたのが「日常のおつとめ」でした。わたしたちの大切にしていることを通して自分の大切にしていることはなんだろうと少し立ち止まる時間になればいいなと思っています。だけどこれも結局、YouTubeやライブ中継で法話をするということが私にはできないという逃げから思いついたことのような気がしています。

■わたしの伝える道とは
はじめに、このお話しをいただいたとき「伝えられることなんてない私に、伝道なんて…。」と思いお断りしようとおもっていました。(すみません笑)
だけどわたしのようにそうなれないに苦しんでいる人がいるかもしれないと考えたときに、これもひとつの縁なのかもしれないと書いてみようと思いました。

生きているととにかく枠やカテゴリーが多いなって思うんです。冒頭の男だとか女だとか、僧侶だからとか、社会人だからとか見えない圧力みたいなものが多いなって。そこに入れる人は多数派で安心できるけど、入れない人は枠に入れない自分がいけないのかもしれないと思ってすごくがんばって苦しくなっちゃう。枠なんて本当はないのに、周囲や自らがつくりだして勝手に苦しくなってしまっていて…まさにわたしがそうなんですけど。

だからこそ違和感に対して、模索し問いつづけていくことで「そうなれない自分」を肯定していく方法が見つかるのかもしれないなと思います。

なれなくてもいいじゃん、あなたなりに伝えられればって言ってあげたいですね、自分に。

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