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「なんにでも」、「なれる」

日中の予定がぽっかり空いた。
空いて欲しくて空いたわけでもなかったけれど、まあ外へ出てみようかと思った。

昨日は異様なあたたかさだったのに、今日はきちんと寒い。
ずいぶん薄情な感じの天候だと思う。
ウールのしっかりしたコートにカシミアの手袋、きもち良いスカーフを巻く。靴下はぜったいに分厚いものを、水が染み込まない靴もたいせつだ。

電車に乗ってヴィクトリアケーキを食べに行こうと思ったのに、芸術的にうつくしいヴィクトリアケーキを提供するお店は今日は休みだったのだ。

仕方ないのでスターバックスへ行く。グールドを聞きながら、本を読む。ヘミングウェイの『移動祝祭日』。この本は装丁とタイトルがすばらしい。その二つがすばらしくさえあれば、もう十全に本の役割を果たしていると思う。


どうしてかわからないのだけれど、スターバックスというところはいつも混んでいる。わたしの左隣には、ものすごく分厚いなんかの辞書(広辞苑ではない)を開きながら勉強している二十歳前後の女性がいて、右隣には老夫婦が向かい合っている。木のマドラーで何度もコーヒーを混ぜながら、わたしに何かを話しかけたのだけれど、聞こえないのでただにっこりしておく。

ノイズキャンセリングしてもノイズは聞こえていて、あちこちから垂れている蜘蛛の糸のように世界はノイズに満ちている。なんでこうも世界にはノイズが満ちているのだろう。それぞれの人はそれぞれに用事がありそうで、同じこのスターバックスの席に座って、何かしらの飲みものを飲んでいる。

そんな中にいて、わたしはもう死んでるグールドの弾くピアノを聴きながら、もう死んでるヘミングウェイの書いた『移動祝祭日』を読んでいる。わたしを取り囲んでいる人はみんな死んでいなくて、生きている。それはひどく不思議なことに思えた。

カウンター席のおじいさんは、買い物ぶくろから買ったものを一つひとつ取り出して、床に積み上げている。白いトレイに入ってラップされた豚肉、切り身の鱈、ひき肉、鶏もも肉。そんなものが床の上に重ねられている。わたしはヘミングウェイが貸本屋で本を借りるところを読みながら、そしてグールドのピアノがとてもエレガントに鳴るのを聴きながら肉や魚が積み上がっていくのがどこまでいくのか息を詰めてみている。

おじいさんは何日かけて、何人でこの肉や魚を食べるのだろう。
わたしは、今は何も食べたくないと思う。栄養のあるものを何も食べずに、どんどん体が薄れていったとしたらよい気持ちがするだろうか。隣で勉強している女性になった気持ちになってみる。たいしてよい気持ちはしないのだった。隣の老夫婦のどちらにもなる想像もしてみる。そんなに良くはなさそうだった。床にトレイを積み上げているおじいさんのことも思った。ぐっぱりしなかった。

わたしは何にでもなれて、何にもなれないのだった。
こういうときにはお花を買うといい。
いくと必ずよい気持ちになるお花屋さんがあって、そういう場所があるということはとてもいいことなのだ。

わたしが「とても」というときは、それはただの形容動詞なのではなくて、ほんとうに「とても」、「いい」、「こと」、「なのだ」。

そして、わたしが「なんにでもなれる」というとき、それはほんとうに「なんにでも」、「なれる」のだ。

わたしは買いものした包みを抱いて、すべすべしたスカーフを巻いて、わたしのようなわたしではないようなものとして家に帰った。

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