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片隅でも真ん中でも、失われていい命も、生き延びていけない命も、1つだって無いよ。(『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』こうの 史代著)

1946年の時点でジャーナリズムが機能していることを尊敬するけども、いくら敵であっても民間人相手に核爆弾落とすなと、私は考えます。威力を理解してたのでしょうから。残酷でない兵器は無いし、そもそも殺すなと。引用しますねーー

ニューヨークのタウン情報と映画欄、ダイヤモンドや毛皮、車やクルーズのきらびやかな広告に続いて、編集部からの簡単なお知らせが載っている。そこには、この号全体をたったひとつの記事に充てると書かれていた。「1発の原爆がある都市をほぼ完全に消滅させたこと」に関する記事だ。「原爆が持つ信じられないほどの破壊力を把握している者はほとんどいないに違いないと考え、それを使うことがどんなに恐ろしい結果をもたらすか、だれもがじっくり考えてみたほうがいいと確信したから」だと説明している。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-37350105

『はだしのゲン』『火垂るの墓』『黒い雨』などを通して、あの時代の出来事を心に刻んだ方も多いと思います。私もそうです。

歴史として理解し語り継ぐけれど、例えば『火垂るの墓』なら戦災以前に、お米を預けたのに扱いが変わっていく様子など、彼らが生きていけなくなるのは人間のエゴも絡むので、見てられません。名作なので、伝わり過ぎてしまう。

だから、こうの史代作品は名作なのは評判から感じ取っていても、「伝わりすぎる」と予想されるので、無理かなと思っていました。

👆そんなことを呟いたら、背中を押してくれる声が。ニツカさんが声かけてくれたら、立ち止まって耳を傾けます。

広島長崎は象徴だけど、戦争で傷ついた方達の話がしんどい気持ちはあります。歴史として語り継ぐけれど、まだ作品を読む必要があるのかな、と。結論を言うと、何年もかかったけど、読んで正解でした。

ことに環さんのnoteを、二度目の通読を終えたタイミングで読めたことが、幸運でした。エリフ・シャファクの物語論にも繋がるし。

👆これを読むなら👇これが先ですよね。

『夕凪の街 桜の国』最初の主人公である、皆実の「嬉しい?」のコマ、恐ろしいほどの普遍性を感じました。責任を持つものは見届けろと感じますし、現代でも非戦闘員が傷つけられることは多いから。国境も文化も越えて、この一言に共感出来る人はたくさんいると、信じます。

靴が擦り減ることさえ倹約し、慎ましく暮らした彼女の人生は、どう理解したら良いのでしょう。「原爆の直撃で死なずに済んで、10年生きられたし畳の上で死ねたし、子孫が覚えていてくれるから恵まれてるね、マシなケースだよ」と比較出来る問題ではありません。

続いて『この世界の片隅に』の上中下を読みました。少し休みながら。

絵を描くことが好きで得意な少女が、広島から呉市へ嫁いで来ます。歴史を知っている側からすると、「逃げて」と思いますが、どこに逃げ場が有るでしょう。月毎にカレンダーをめくるように、日々の暮らしと、嫁ぎ先での人間関係が語られます。戦争末期で物は無くなっていくけれど、工夫して笑える家庭です。どこにでもある家庭の象徴に思えました。サザエさんよりも昔を舞台にしているのに、共感可能に描かれている。時代と環境が異なるだけで、丁寧に描かれる細部から、切れば血が出る同じ人間だと、私は読みました。1945年を甦らせるだけでなく、現代と繋がる普遍性を持っています。

そこに、破壊が起きます。

『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』の両方に言えることですが、「そこに居たことが罪なのでしょうか? そこしか、いる場所がないのに」という一言に尽きます。

両作品ともにフィクション・虚構・物語・お話です。でも、兵器に吹き飛ばされて、名前を奪われた誰かや、戦災の傷を負って生き延びた無名の誰かを、読み手の心の中に甦らせる力のある作品です。だから、多くの人の心を揺さぶったのでしょう。

ーーあなたは悪くないよ。政治と外交の失敗に巻き込まれただけだから。世界の片隅であろうと、あなた達が生きれば、あなた達の人生の舞台はそこだよ。舞台にいてはいけない人も、生き延びたらいけない人も、1人だっていないよ。

(もうすぐ、『広島原爆忌』『長崎原爆忌』ですね。原爆以外でも、亡くなった方と、生き延びた方がいるから、子孫の僕達がここにいる)

傷を抱えた友達や、亡くした友達が、増えました。ニツカさん、ありがとうございます。

👆ヘッダーは環さんからお借りしました。

Thank you for taking the time to read this.