見出し画像

何でもないけれど、誰かにとって愛おしい日々を、思い出と歩く

病気がちな子どもだった。2,3歳の頃だろう。熱が下がり、親が私を団地の敷地内の小さな公園へ連れて行った。やっと外で遊べるようになったと息子を見守っていても、安心はできない。一緒に遊ぶお友達が「くしゃん」とくしゃみをしただけで、だいたいその夜は高熱を出したそうだ。

町を歩くと、あの頃の私くらいの背格好の子を連れた親御さんを見かける。ちびちゃんは、歩きながら宙の何かをつかもうとするかのように、両手をにぎにぎさせている。バランスを取りながら歩いているのかもしれない。

その親子の通り過ぎたパン屋さんで、80代くらいの男性が「今日はやってないの?」とお店の方に声をかけている。「コロナの関係で、テイクアウトだけなんです」と、申し訳無さそうに微笑む。80代くらいの男性は、イライラするでもなく、ゆったりと、「じゃあ、それを下さい」とテイクアウトを注文していた。

パン屋さんの斜め向かいに背の高いマンションがある。マンションのエントランスがあるから、歩道を塞がずに立ち止まるだけのスペースがある。小型犬を連れた、50代くらいの女性が、スマホを操作している。フリック入力しているようだ。足元の小型犬は、「まだかな?」と飼い主を見上げることはしても、「もう行こうよ」と綱を引っ張りはしない。小さなスフィンクスのように座って、あくびをしている。

思春期くらいの世代の女子が、2人連れで小型犬の横を通り過ぎる。「かわいい」とささやきあっている。小型犬は「私?」と顔を向けて尻尾を、少しだけ振っている。全力ではなく、パタ、パタくらいのリズムで。

確かにその小型犬も様子も可愛い。可愛いものを見つけ、共有する感度が高い。こんな時期を通り過ぎて、私が知っている女子達のように、扱える範囲がやたら大きい「可愛い」という言葉と感覚を獲得していくのかもしれない。

病気ばかりする子どもだった。きょうだいとは歳が離れている。一人で過ごす時間が長いからか、枕元に、手作りのうさぎの人形がいてくれた。家に居る時は、相棒のように連れて歩いた。愛おしい・好ましい・懐かしい。様々な思いを込めた「可愛い」人形だった。

時間は流れ、やがて明日になり、思い出になってしまう事柄。その中から、何かを拾えることは、その人の財産だ。何でもない日々が、誰かの目には「かわいい」で満ちている。

サポートする値打ちがあると考えて下さって感謝します! 画像生成AI学んでるので、その費用にさせて下さい。 新書を一冊読むことよりお得なnote目指してます。