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映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』 白城ゆいはやさしい

誰かの言動に深く傷つく。
その痛みを自分の中で抱え込むのは苦しいから、言葉にすることで消化する。
その言葉を誰かに聞かれるのが怖いから、ぬいぐるみに語りかける。


この映画で描かれた弱さに共感できない、という人は少ないんじゃないだろうか。

映画を見るまでは、その弱さを肯定する内容が描かれることを想像していた。もちろんこの映画の軸足はそちらにあったと思うが、決してその一面的な切り取り方に終始せず、弱さが持つ危うさにもスポットライトが当てられた。
非常に繊細で、ともすれば(それが正当かどうかはさておき)怒りや苛立ちを呼び起こしてもおかしくない題材だったが、そうならなかったのはこの映画が誠実だと感じられたからだ。

登場人物をタグ付けできるようなわかりやすいキャラクターとして描かず、安心して感情の波に身を任せられるような過剰な演出もしない。
この映画が弱さに対して向ける眼差しは確かに優しいものではあったが、決して温かいだけではなく、むしろ努めて冷静であろうとしているように感じた。
静かに見守るようなその視点は、もしかしたらぬいぐるみのものだったのかもしれない。

その視線は主に、七森剛志と麦戸美海子の苦悩に向けられていた。
しかし私は、白城ゆいという人物に着目したい。

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい。
だが、白城ゆいはぬいぐるみとしゃべらない。
では、彼女の優しさとはなんだったのか。
彼女の苦しみはどこにあったのか。
白城の描写は少なく見えづらいが、七森とのすれ違いから想像してみたい。


七森は、人を好きになることがどういうことかわからない。
他人のスキが自分を傷つける可能性。
自分のスキが他人を傷つける可能性。
彼はその両方に怯えて、他人から遠ざかった。
そんな彼にとって、「ひとのセクシュアリティ」を気にせず、プライベートな領域に立ち入られることのないぬいぐるみサークルは安心できる場所だっただろう。

しかし、そこにとどまり続けていてはたどり着けない場所がある。
大勢の人間が向こう側で幸せそうに笑っているのを目にした時、それでも私はここで平気だと心の底から安心できるだろうか。
少なくとも七森はそうではなかった。
白城への告白は、その不安からくる衝動的な行為に見えた。
確かに彼が毛嫌いするような所謂”男性的な”衝動ではなかったが、しかし弱さを抱えきれずに他人を利用した身勝手な行いには違いない。
その残酷さやそこに潜む加害性を、果たして彼はどれくらい想像できていたのか。
白城と口論になった時、七森はこう口にする。
打たれ弱いことは悪いことじゃない。
打つほうが悪いんだ、と。
それはきっと正しい。
では、弱いことはどうなんだろう。
弱さが誰かを打つことだってあるんじゃないだろうか。

そもそも、自分と異なる価値観を持った他人は、本人の意志とは無関係にただそこにいるだけで自分の在り方を脅かす。裏を返せば自分だって、どれだけ気を遣ったところで誰かを脅かしてしまうことは避けられない。
結局のところ、誰かとつながろうとする以上、完全に無害ではいられないのだ。裏を返せば、他人を求めるということは傷を求めることでもある。
痛みをもたらす他者を排してもなお満たされない気持ちがあるのだとしたら、それは誰かに傷つけられること、誰かを傷つけることを求める気持ちではないのか。
だから、七森が誰かを好きになることができないでいるその根っこには、誰かと傷つけ合う覚悟が欠けているように感じた。
そう考えれば、引きこもった七森が髪を染めていたのは、ある種の自傷行為にも思える。傷つけ合うやり取りを誰かとの間で行うことが怖いから、自分で自分を傷つけるしかなかったのかもしれない。

それでも彼は最後に大きな一歩を踏み出す。
他者との対話という一歩を。
誰かにとっては意識しなくても簡単に踏み出せるかもしれないその一歩が、彼にとってはあまりに重かった。
それほど彼にとっては恐ろしかったのだ。
傷つけられることも傷つけることも。
時間が経てば経つほど思考はループし凝り固まり、行動の変革は過去の自分への裏切りの意味を帯びてますます困難になっていく。
肥大化した恐怖を乗り越えることができたのは、自分と見ている景色が似ていると感じられる人がいたからだ。
その人を傷つけたくないと考えた時、優しさだと思っていた誤魔化しが人を傷つける可能性に思い至った。
彼にとって初めて内面を打ち明けられたその相手は、麦戸美海子であって白城ゆいではなかった。




しかし、本作は白城ゆいの言葉で幕を閉じる。

ーーーやさしすぎるんだよ。
傷ついていく七森と麦戸ちゃんを、やさしさから自由にしたい。
だから私は、ぬいぐるみとしゃべらない

彼女は、七森や麦戸の在り方を危ういと感じていた。
それは彼らの恐怖や弱さを解していないからではない。彼らが怯えているものに傷を負わされた経験は、彼女にもあるはずだ。
しかし、彼女はその痛みに耐える練習を繰り返してきている。だから、痛みへの耐性が身についた。
痛みに鈍くなっていくその変化を、七森は「嫌なものになっていく」ことだと言ったが、しかし白城にとっては、自分が打たれ弱い存在であることや、生きていく場所の選択肢がなくなってしまう恐怖の方が耐え難かったのではないだろうか。
あるいは、七森が口にしたような「自分が傷つきたくて傷ついている」可能性が頭をよぎったのかもしれない。つまり、自分は加害者ではなく被害者なんだと安心したいのではないかと。
それは意地の悪い考え方だと思うが、では傷つける側の裁量だけで傷の深さが決まるのかというとそうではないだろう。

このように、白城と七森の間で世界の見え方が全く違ったわけではなかったが、しかしこの理不尽な世界でどう生きていくべきかという命題に対する”生存戦略”は違ってしまった。
七森は世界が悪いのだからと世界の方に変化を期待し、一方白城はどんな世界でも適応して生きられるようにと自分を変えようとした。
これは生き方の選択の話であって、どちらが良い悪いではない。
ただ、違ってしまったのだ。

白城だって、自分の選んだ生き方が100%正しいと思えていたわけではないだろう。
七森と付き合ったのも、彼の生き方を真っ向から問いたださなかったのも、彼女の中に不安や迷いがあったからではないだろうか。
七森ならその不安を掬い上げてくれて、2人の間に横たわる大きな断絶を埋められるかもしれないと期待したのかもしれない。
あるいは、ただその境界を埋めていこうとする姿勢を確かめあえれば、それで良かったのかもしれない。
それはすなわち、七森が白城にとって、七森にとっての麦戸のような存在となっていた可能性だ。
しかし、彼女はその可能性にほとんど期待していなかったようにも見えた。そんな期待を抱くことも、彼女にとって避けるべき弱さだったのか。
いずれにせよ、この映画の中で彼女の苦しみが掬い上げられることはなかった。


それでも白城ゆいは、ぬいぐるみサークルに身を置き続け、七森と麦戸のそばにいることを選んだ。
その在り方が胸を打つ。

人は、自分が乗り越えたものと似た苦悩を抱える人がいた時、自分が理解者であるとともに先達であると錯覚してしまう。あたかも自分はその人の前を走っているかのように。
だが、今まさに苦しんでいる人からすれば、乗り越えられた/られなかったという違いは大きな断絶となる。そもそも走っているコースだって同じはずがない。
白城ゆいは、そのことをわかっている気がする。
彼女は七森や麦戸が抱える苦悩を知っているはずだが、決して仲間のフリはしなかった。
他者の理解不能性と正面から向き合った彼女が取った選択は、七森と麦戸にとっての他者として傍に居続けることだった。

たしかに、ぬいぐるみサークルという居場所のおかげで、七森と麦戸は対話という一歩を踏み出すことができた。
しかし、いつまでも安全な場所がある保証はない。理不尽な世界で生存確率を高めていくための次の一歩として、サークルの外の人とも関わることを迫られる日が、いつかやってくるだろう。
だから、白城ゆいはサークルの中における他者であることを引き受けた。
優しさに雁字搦めになっている彼らが自由を得られるよう、自分にできることを考えて。



結局、優しさとは何なのか。

決まった答えはないことを承知の上で、あえて自分なりに定義するとすれば、第一に、自分とは異なる快楽原理を持った他者に対して、その人の価値観を尊重し、その人にとっての最善が何かをよく考えること。
そして第二に、その最善を実現するために行動できる勇気と、その行動の責任を引き受ける覚悟を持つことだ。

その意味で、ぬいぐるみとしゃべらない白城ゆいの選択こそ優しさではないだろうか。

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい。

そして、ぬいぐるみとしゃべらない白城ゆいも、とてもやさしいのだ。

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