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映画『コンパートメントNo.6』 熱を分け合って

「過去を知れば現在を容易に理解できる」と男は言った。
みんなは深く頷いた。
「人間同士の触れ合いは、いつも部分的にすぎない」と女は言った。
みんなは笑った。
その言葉が、マリリンモンローのものだったからだ。

彼らの自信に満ちた態度から語られる言葉にはゆるぎがない。
この世に解明できないことなどないのだから、恐れることは何もないのだと言わんばかり。
彼らはきっと正しい。
議論になれば、必ずや相手を言い負かすだろう。

しかし、貪欲に世界の空白を埋めようとするその態度にこうも思う。
もしかすると、彼らは怯えているのではないか、と。
何かがわからないままであること、どこかが空白のままであることを。
しかし、いつまでその態度を貫けるのだろうか。
いつか、その正しさや美しさでは理解できないものが、救えないものがあると気づく時がやってくる。
自分の中に、あるいは大切な誰かの中にそれを見つけた時、それまで信じて疑わなかったものを見直さずにいれるだろうか。


ラウラがまさにそうだった。
彼女はイリーナに憧れ、惹かれていた。
気品に溢れ、理知的で美しいイリーナ。彼女は完璧だった。
しかし、イリーナと一緒にいるときのラウラはどこか息苦しそうだ。
彼女に相応しくあろうと、彼女の隣にいても恥ずかしくない人であらねばと、気を張っていたのか。だが、その先にあるのは条件付きの愛だ。
自分には無い美しさや能力を持っている人に近づきたいという気持ちはよく分かる。特別な誰かに愛してもらうことで、自分も特別な存在だと思える陶酔感。自分には何もないと卑下している人ほど、その安心にすがりたくなる。
これもまた、空白を許容できず埋めようとする態度だろう。
だが実際にその欠落は埋まってなどおらず、ただそこから目を逸らしているに過ぎない。


その欠落に目を向けるきっかけをくれた存在が、リョーハだった。
炭鉱労働者である彼は、学がなければ品もない。
粗暴で無礼で、遠慮がない。
言葉を知らないし、新聞の記事の意味もわからない。
ギターも弾けなければ、絵も描けない。
そんな無い無い尽くしのリョーハが抱える「何もない自分」というコンプレックスが、まさにイリーナに対するラウラの気持ちとオーバーラップする。
だがそれは、他者の中に自分を見つけて喜んでいるだけだ。ひとりで孤独を慰撫しているだけで、リョーハの気持ちに寄り添えたわけではない。
だから、2人は食堂車ですれ違ってしまった。
似顔絵のスケッチを渡し合うという行為が、彼のコンプレックスを刺激する可能性に想像が及ばなかった。
持つものが持たざるものを意図せず傷つけてしまう。
その痛みを彼女はよく知っていたはずなのに。
あろうことか、その痛みを癒やしてくれた人に、同じ傷を負わせてしまった。
ラウラに足りていなかったのは自分に深く向き合うことだったが、そこで向き合うべきは自身の欠落だけではない。自分がこれまで築いてきたもの、持っているものを正しく理解することも、他者と関係を築く上で大切なことだ。


ラウラは慌ててリョーハの後を追い、何も語らずただ彼を抱きしめた。
言葉で説明してもリョーハには届かない。
雄弁さもまた、彼にとっては自分にないものだ。
それにこの時の彼女には、リョーハの苛立ちや自分の気持ちをうまく言語化する余裕もなかっただろう。
ラウラがビデオカメラを失って大きく取り乱した時、リョーハはラウラの悲しみを理解できなくても元気づけようとした。
これはその裏返しだ。
彼の苛立ちを正しく理解できなくても癒してあげようとして、その行為を通じて、何か自分の中にも救われるものがあった。
二人が互いにとって大事な存在となったのは、そういうシンプルな思いやりを与えあえたからだ。
通じあえる何かがそこにあると信じられることが大事なのであって、そこに正確な相互理解が生まれているかどうかは、本質的には重要ではない。
確かに、自分の欠落を正しく理解して埋めてくれる人との運命的な出会いは、美しいし憧れる気持ちもよく分かる。
だが、多くの場合その夢は夢のまま終わる。
これは完全に個人の好みの話だが、私はその先を描いてくれる物語が好きだ。


本作で出てくるペトログリフも、ある種そうした幻想や夢の類だったように思う。
ラウラが見てみたいと思ったのは、ただイリーナが勧めてくれたからだけではなく、永遠の象徴という概念に焦がれたからではないだろうか。
彼女は、何もかもが壊れて失われていくこの世界の摂理に怯えていたのかもしれない。
喪失と忘却の強大な波に抗う術。
わたしはこの世界に生きていたということを示す痕跡。
彼女がそういうものを求めていたのだとしたら。
そう考えれば、彼女がビデオカメラに世界を記録していた行為の意味も、それを失った時に激しく打ちのめされたことも、単にイリーナのためと考えるよりは少し納得感がある。

最終的にペトログリフを目の当たりにして、彼女がどう感じたのかはわからない。
悠久の時の流れを越えて残り続けるものに感銘を受けたのか。
あるいは、所詮こんなものかと拍子抜けしたのか。
穏やかな表情でじっと海を眺めていたその姿からは、どちらかというと後者の気持ちが想像された。
永遠なんてどこにもなかった。
いや、むしろ永遠なんてどこにでもあるものだった。
途方に暮れる一方で、どこか自由と安堵も感じる。
もう届かぬ光に囚われる必要はないのだと。
彼女は気づいたのかもしれない。
時の楔から解き放たれる翼を求めてきたけれど、一瞬でかき消されてしまう二人の足跡だってこんなに美しいではないかと。


振り返ってみると、この長く暗い列車の旅は、ラウラが自らのうちに深く潜る、孤独な内省の旅だったように思える。
厳冬のロシアの凍てつく大地は、誰にも触れられず冷えて固まってしまった彼女の心だ。
リョーハはそこに熱を分け与えてくれた。彼自身、凍えて震えていたにもかかわらず。
その熱を受け取って凍った心を溶かすことができるかどうかは、結局本人次第だ。
たどり着く場所がどこかもわからない。
長く、困難な旅路になる。
その道行に、リョーハはずっと付き合ってくれた。

そして、忘れてはならないと思うのが、イリーナもラウラにとって大切な存在だったということだ。物語の構造上、どうしてもイリーナよりもリョーハの存在が際立つが、彼女をこの世で一番美しいと感じた彼女の心に偽りはない。
ただ、そのあまりの眩しさに、自らの足元を見失って共に歩むことが難しくなっただけのこと。
イリーナとリョーハは、それぞれラウラの憧れと現在地を照らしてくれる、かけがえのない出会いだった。


結局、リョーハはラウラのもとを去ってしまう。
一瞬理解できた気がした誰かのことも、結局はわからずじまい。
一瞬埋まった気がした孤独が、完全に失くなることはなく。
でも、それでいい。
空白は空白のまま。
わからないことはわからないままに。
その曖昧さ、ままならなさに堪え忍ぶ体を、支えあい、守りあえる誰かと、たとえ一時でも出会えたなら―――。
それはきっと、明日を生きていく希望になるだろう。

ラストシーン。

窓越しに降り注ぐ柔らかな陽の光は、リョーハがラウラに与えた微温の象徴だ。
『Haista vittu』
2人の間の明確な不理解と不均衡を表す言葉。
それを目にしてラウラが浮かべた笑顔からは、雪解けの音が聞こえてくるようだった。


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