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映画『逃げきれた夢』 柴犬はかわいい

フィクションとリアルの境界を探るような映像だったからか、見ていて濱口竜介監督の作品が思い浮かんだ。
いわゆる異化効果ともまた違う、僅かな現実とのズラしが独特の味わいを生んでいたように思う。


映像もお話もスケールとしてはとても小さい。
定時制高校の教頭を務める末永周平の、特にこれといった事件も起きない平穏な日常が描かれる。
劇的な音楽は流れず、時間の跳躍も起こらない。
身体が躍動することもなく、ただ日常的な動作が繰り返されるだけ。
現実世界を支配する重力を、誇張することも矮小化することもなく、そのまま描いていた。

それでもなぜか、その地味な画面に惹きつけられてしまう。
ドラマチックなことは起きないと半ば気づきながらも、画面に漂う緊張感に目を離すことができない。
現実と代わり映えしない景色のはずなのに、現実では持ち得ない緊張や期待を抱いてしまうのはなぜだろう。


一つには、時間と空間の切り取り方の妙があったと思う。
動きがない画面のまま、なかなか切り替わらないカット。
言葉だけで断片的に語られる登場人物の過去。
曖昧な表情。短いセリフに、長い沈黙。
思わず想像させられる。
画面に映っていない人物の動きや表情。
その人は心の内で何を思うのか。
描かれない過去に何があったのか。
フレームで切り取られたその外側の、映されない世界の景色に思いを馳せてしまう。
ぼんやりとしているのに、目を凝らせば何かが見えてくるような期待感が常にあるのだ。


同じことが、人物の描き方についても言える。
絶妙なリアリティラインをつく抑制の効いた演技は、主役の光石研に限らずどの役者も見事で、一瞬しか出てこない定時制高校の生徒たちも強く印象に残っている。わけても松重豊、吉本実憂、工藤遥の3人が光石研と交わすやり取りはどれも素晴らしかった。
しかし、演技が自然であること以上に惹きつけられたのが、彼らの人としてのつかめなさだ。

この映画に登場する人物は、誰も彼も心の底で何を考えているのかが見えづらい。本心を隠そうとしているわけでもないのに。
次の瞬間、その人が笑うのか怒るのか、あるいは泣き出すのか予想がつかない。
主人公にとってどういう意味を持つ存在なのか、その役割が徹底して曖昧にされていたように思う。

けれど、主人公の周平が彼らを前に戸惑うことはそれほど多くない。彼からしてみれば付き合いが長く、相手がどうリアクションするか大方予想があるからだろう。(わかっているからといって上手く付き合えるわけではないのが哀しいが……)
物語としての文脈から、見ている観客の方が登場人物の行動を予測しやすいということはフィクションでは往々にしてあることだが、この作品ではその逆転が起きていたように思う。
その意味でスリリングな体験だった。


映像にしても人物にしても、この見えなさ、掴みどころのなさが、日常描写しかないにも関わらず独特の緊張感をもたらしていた。
そしてこのわからなさこそ、作品にリアリティを求めるうえで監督が拘ったところなんじゃないだろうか。
つまりそれは明快な意味や物語を与えまいとする意志であり、誰かの人生への安直な理解や解釈を拒絶する態度だと思う。



そして、この映画に感じたその緊張の糸の先につながっているのは、私自身が世界へ寄せる期待なのかもしれない。
すなわち、世界や人生に物語的な意味や価値を求める期待だ。
それは主人公の周平が認知症を契機に自分の人生を問い直す態度に似ている。
彼は、その意味や価値といったものを他者からの承認に求めた。


周平は、一見癖のない人物だ。
誰にでも愛想がよく、積極的に他人との交流を図る。
その別け隔てなく柔軟な態度によって彼は、誰とでもつながれる一方で、誰との間にも深い絆を築けなかった。
父親としても夫としても友人としても教師としても、わかりやすくて摩擦の少ない人物像を演じていたのかもしれない。
因果関係はさておくにしても、結果として妻は浮気し、娘との会話は減った。
定時制高校に通う生徒たちも、彼を拒絶こそしないが、少しでも彼らの深部に近づこうとすれば警戒する。
おまえにこの重荷が背負えるはずがないと、暗に人生の薄っぺらさを嘲笑われる始末だ。

だが彼のその態度は、決して他者との距離を稼ぐためだけのものではなかった。
途中で彼自身が告白するように、その根底には他者からの承認や愛を求める気持ちがあった。母を早くに亡くし、父の恐怖に怯えて育った生育環境も、その渇望と決して無関係ではないだろう。
ところが彼はその胸の内を誰にも明かさないのだ。
生き方を見つめ直そうと考えるほどの病気のことさえ打ち明けられない。唯一素直に話せるのは、老人ホームで暮らす物言わぬ父の前だけ。いや、そこでさえもまだ何かを取り繕っていたように見えた。
自分の本当の声を隠しながら相手の懐に踏み込もうとするその身勝手さを、旧友の石田だけは看破していた。
石田は石田なりに彼の心の扉を開こうとしたのだろうか。しかし、周平はあの笑い方で煙に巻いた。

別にわざわざ腹を割って話さなくとも、人とつながることはできる。むしろ割らないほうがいい腹のうちもある。けれど、より確かなつながりを欲するのなら、ある程度は自分を開く必要が出てくる。
そういう意味では、彼が言った通りきっかけなんてなかったんだろう。
むしろ、きっかけは作るべきだった。
種を撒いても水をやらなければ芽吹かない。況してや花が咲くはずがない。
彼の今を形作ったものに、彼の責任と呼べるものがどれだけあったかはわからないが、少なくとも自分の生き方を焦って見直したくなる程度の自覚はあったということだ。


だからこそ、元教え子の平賀との関係に希望が見出される。
会計を忘れるという偶発的なきっかけではあったが、病気のことを唯一打ち明けた相手が彼女だった。
それに呼応するように、平賀は自身が抱える悩みや空虚さを吐露し始める。
しかし彼女の求める言葉が、周平にはわからない。
ただ、ここで耳障りのいい言葉で誤魔化せば、また同じことの繰り返しになるということだけはわかっていたのだろう。何か、自分が変わるきっかけになる予感があったのかもしれない。
全編を通じて漂っていた緊張感は、喫茶店の場面で最高潮に達した。

それまで誰を前にしてもあれほど饒舌だった周平が、平賀を前にして黙することになる。
その沈黙の裏には、自分の中をいくら探しても届けるべき言葉が見つからない葛藤が見える。他者からの承認よりも、他者への誠実さを選んだが故の沈黙だったように思う。
しかし、沈黙だけでは彼女の心に届くはずもなく、平賀は開きかけた心の扉を閉じて立ち去ってしまう。
それでも何かを届けたいと絞り出した言葉が、あの最後の言葉だったのではないだろうか。

平賀が振り返った時に見える、周平のバックショットでこの映画は幕を閉じる。
それは、あの夜の商店街で石田が見た背中とよく似ていたが、しかしどこか清々しい足取りの軽さを感じた。
その些細な変化を小さな希望の萌芽だと感じたのは、私がそう信じたかったからかもしれない。


しかし、見ていてこうも思った。
周平は十分魅力的な人物じゃないかと。
相手を警戒させることなく懐に入り込み誰とでも仲良くできるし、気まずくなりかけた時に見せるあの笑い方だってチャーミングだ。(光石研が演じればこそではあるが……)
たしかに空気の読めないところはあるが、その持ち前の人当たりの良さと社交的な性格は、十分彼の美徳だと思う。

いわゆるミドルエイジクライシスに、記憶障害という病が重なったことで彼は焦って分かりやすい意味や価値を求めた。
しかし、そこで彼が手に入れようとした親密な関係なんてものは、多くの人が憧れはしても結局手に入れられない、一種の集団幻覚みたいなものじゃないだろうか。
相手に伝えたいと思った言葉はちっとも響かないのに、言ったことも忘れてしまうような一言で勝手に救われている。
そんな理不尽でままならない存在とインスタントに深いつながりを築けるはずがないし、曖昧で複雑な人間関係にわかりやすい評価を与えること自体無理な話だ。

周平に必要だったのはそんな都合良く満たしてくれる関係などではなく、その焦りを打ち明けられる、彼の在り方を肯定してくれる存在だったんじゃないだろうか。
その意味で、彼が大切にすべきだったのは旧友の石田だったように思う。

そんなこと言ったら、しゃーしいと怒られそうだが。

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