FGO LB7 『ナウイ・ミクトラン』 〜この星があなたに届きますように〜
「嘘つきばっかりなんだ。気持ち悪いなあ」
誰もが平等であって、誰もが特別じゃない。
そんな汎人類史の価値観に対して、アルトリアが胸に抱いた正直な感想。
足りないものが多い人間という知性体は、他人より優れていたいという飢えを抱えながら生きている。
妬み僻みで足を引っ張りあっているのに、耳触りのいい”理想”を標榜することでその醜悪さを誤魔化す態度。
どうあれ差は生まれる以上、誰かを踏みにじりながら生きていかざるをえないのに、その現実から目を反らして拙い夢を見る無責任さ。
彼女はそういったものをおぞましいと感じたのかもしれない。
物語なき異聞帯
LB7に登場した異聞帯の人類にあたるディノスは、まさにその理想を体現した存在だった。
誰も特別扱いせず、何人も軽んじない。
格差を生むことのない完全な平等。
無駄を排除して、正解を選び取る高い知性。
共感力が高く、争いを生まない穏やかな精神。
完璧と言っていいほど理想的な社会を築き上げた。
瑕疵がないからこそ、なにかに憧れることもなければ、なにかに近づくための工夫もしない。そもそも自分に何かが欠けているということを想定しない。(ワクチャンは違ったが)
そして人とディノスの何よりも大きな違いは、彼らディノスは辛い過去を忘れられることだった。
辛い記憶を忘れれば、苦しみも憂いも生まれない。彼らに過去への執着はなく、今が永遠に続くだけ。
だから、ミクトランに歴史はなく、文化は育まれず、”物語”が生まれなかった。
ディノスは汎人類史に対してこう言った。
あなたたちは忘れないから物語があるのだ、と。
しかしこれは少し正確ではないと思う。確かに、人は辛い記憶をトラウマとしていつまでも抱え込んでしまうが、総じて記憶力が良いというわけではない。
ディノスにも過去の記憶があるところを見ると、忘れているというよりは過去の出来事への執着心を捨てているだけに見える。
人にはそんなふうに都合よく感情や記憶をコントロールすることができない。どんな記憶も、時間とともにどんどん摩耗していくし、忘れたい出来事に限っていつまでも手放せずに反芻してしまう。
忘れないから物語が生まれることは事実ではあるが、一方で忘れないための物語もある。人の物語がこれほど豊かなのは、曖昧で不安定な記憶能力ゆえなのかもしれない。
少し話が逸れてしまったが、LB6とLB7の対比の1つは明確だろう。
すなわち、物語そのものである異聞帯と物語なき異聞帯だ。
LB6の妖精國は、モルガンが描いた1万4000年の童話だった。
その中でオベロンは、都合よく物語を消費する人のエゴを指摘した。
彼はまた、迫害された者たち、行くあてのない者たち、忘れ去られたまま果てるしかない者たちの王でもあった。
つまり、彼はこう糾弾しているように聞こえる。
私達の物語を貪るように消費する行為は、誰かを迫害するような差別的な態度とつながっているのではないか、と。
なるほど確かに、下劣な品性を隠しながら高潔な思想に酔う様というのは気持ちが悪いものかもしれない。
では、そんな物語など生まれない人類だったらどうだろうか。
LB7はそこが起点になっているように思う。
たしかに、ディノスは高尚だった。
争いも差別もなく、誰もが平等だった。
だから同時に、誰かに特別肩入れすることもなければ、誰かの死を悲しむこともなかった。
マシュが引っかかってしまったのはそこだ。
大切な誰かを助けるために、別の誰かを犠牲にできないなんて。
大切な誰かの死と、顔も知らない誰かの死を、等しく扱わなければならないなんて。
それでは前提がひっくり返ってしまう。誰かを特別に、大切に感じてしまう思いを守る以上、私たちはどうあってもそこにはたどり着けない。
ディノスは安寧と引き換えに激情を持ち得ず、間違いを犯さなかった代わりに何も生み出さなかった。
人はエゴを手放せないから安寧が手に入らず、多くの間違いを犯したが同時に多くの文化を築き上げた。
ディノスは人の遙か先にいるように思えたが、実は互いに向いている方向が違ったという話。
そんな相容れない価値観を持ちながらも、人とディノスは互いに認め合い、共存し、敬意を払った。私はLB7を通じて感じたこの空気感がとても好きだった。
自分が憧れ尊敬する相手から、あなたの築いたものが好きだと言ってもらえる。これほど嬉しいことはないだろう。それがコンプレックスならなおさらだ。
マシュは、ディノスほど高潔な存在が無意味な戦いで散っていくのが許せないと憤っていたけれど、怒りの理由はそれだけじゃないような気がする。
自分たちのことを認めて応援してくれた彼らを、彼女はもうどうしようもなく“特別な存在”として愛してしまっていたんじゃないだろうか。
その理屈はとても人間らしくて、私は好きだ。
最初で最後の物語
LB7のクライマックスにおいて、ディノスはついに物語を生み出す。6600万年の時を経て、ようやく。
間違いを犯さず、無駄をなくし、平和と安寧を保ち続け、絶滅さえも受け入れたディノス。そんな種族が最期にその美しさに目を奪われたユメ。
彼らにとって最初で最後の物語は、心をすり減らしながら異聞帯を乗り越えてきた藤丸とマシュに、きっと大きな勇気と希望をもたらしたはずだ。
LB6では失意の庭を通じてそのあり方を問われ、オベロンに憎悪を向けられた。
バーゲストとは異聞帯の人々を汎人類史に招くという約束までしたのだ。その約束が果たされることはなかったが、その可能性に至った時の喜びようは、翻って彼らがずっと抱いてきた罪悪感を象徴していた。
どんな過ちや罪があったとしても、だれひとりとして死ぬべきではなかった、とマシュは言った。
大勢の人の屍を超えて、その精神がまともでいられるはずがない。ましてや、ディノスは取り分けて特別だった。なんの過ちも罪もないのだから。むざむざと死にゆく彼らの姿を前に、マシュが取り乱したのは必然だっただろう。
しかし、そんな彼らが自分たち人間の在り方を美しいと認めて、物語を生み出したのだ。それがどれほど心強いことかは想像に難くない。
LB6,LB7をプレイしながら、ふと思ったのだ。
ある人にとって物語とは、”胸に宿る星の鼓動”なのかもしれないと。
なんの関係もなく、決してこちらを向いてくれることもない、ただ彼方で輝いているだけの星。それでも、あの星を裏切りたくないという、ただその一念で走り続けることができる。
多くの人にとって、物語とはそういう存在なのではないかと思ってしまう。
ディノスが今際の際に、空をかけるククルカンをまるで美しい星を見るように見上げていたのは、彼女がこの世界にようやく生まれた、最初で最後の神話だったからだろう。
せめて誠実でありたいと
剪定事象として消えゆく定めの異聞帯は、”異聞”というその名からして、今この現実とは違うIF、つまり新しい物語を求める人のエゴが生み出したものだ。物語を消費して生きていくことは、そのまま異聞帯を乗り越えていく藤丸の行為にもつながっている。
LB6でオベロンは物語に対する人の態度を糾弾し、LB7ではディノスが物語の持つ力と美しさを尊重した。
一見否定と肯定で背中合わせのように見えるが、この2つは矛盾しない。
ディノスのように物語の持つ力や意義を認めるのなら、オベロンが言うようにわたしたちはもっと誠実に向き合うべきだろう。大きな影響を受けながら、所詮は作り話だからと現実よりも下に見て蔑むことは確かに見苦しいと感じる。
しかし一方で、それは避けようがないことだとも理解している。
人は不都合な事実を忘れなければ前に進めない。
今はだめでも、いつか良くなるからと根拠のない可能性で自分をごまかしながら。
多くのものを踏みつけて置き去りにしたうえで、それでも幸福だと笑いながら。
どうあれ私たちは、あらゆるものを消費しなければ生きていけない。
英雄王が言った通り、人間とは「犠牲がなくては生を謳歌できない獣の名」なのだ。肉体的にも精神的にも。
それは誤魔化しようがないし、その事実こそ忘れずに向き合うべきことだろう。
これは結論ではなく、前提の話だ。人間という知性体の宿命の話だ。
そのうえでなお───
少しでもマシな自分になりたいと。
自分を肯定できる何かを見つけたいと。
そう泣き叫びながら、自己嫌悪と自己否定の嵐の中を走り続けるのもまた、人間である。
ゴールがどこかもわからないまま、悲しみを乗り越えるための傷を作っては隠し作っては隠し、明るい場所を求めて彷徨い続ける。
その旅の途中で出会う、ちいさなちいさな星の煌き。
手の届くことのない、遠い彼岸の物語。
励まされ、勇気づけられ、時に叱咤され、一方的に多くのものを受け取っておきながら、わたしたちはやがてその恩恵を忘れてしまう。
アルトリアが示したのは、そんな身勝手な搾取にどう向き合うのかという問いへの1つの答えだと思う。
すなわち、私たちにできるのは、その星をいつまでも忘れず、いつまでも裏切るまいとすることなのではないかと。
自分の世界にもあの星の輝きに負けないくらいの何かがあるはずだと信じて歩み続ける。
たとえそれがほとんど不可能だと理解していても。
たとえ何度も膝をつき、諦めて全てを投げ出したことがあったとしても。
それでも頭上に輝く星の輝きだけは決して忘れることなく。
その光が変わらずそこにあり続けてくれることに感謝しながら、また顔を上げて進み続ける。
星を輝かせるのは
しかし、実際に置いていかれたもの、踏みにじられた敗残者にとっては知ったことではない。彼らに続きはなく、救いは用意されていない事実はどうあっても変わらない。
だからこのLB7では、敗れた者、忘れ去られた者にも、休息と安寧があるということを語ったんじゃないだろうか。
その役割を委ねられたのがテスカトリポカだ。
彼は、自身の楽園に敗者を迎え入れる。
勇敢に戦い、無惨に敗れ、誰からも忘れ去られた魂を招き入れる。彼らの功績を認め、それに相応しい休息と安寧を与える。
ここでテスカトリポカと星詠みのディノスの言葉を引用したい。
時間はただ積み重なっていくだけで意味があり、どんなものも無意味に終わるということはありえない───。
ああ、それこそ都合の良い夢物語だ。そんなものを与えられたからと言って、敗れ去る者は納得しないだろう。
だが、履き違えてはいけないのは、これは決して勝者から敗者へ与えられる温情や憐憫などではないということだ。
勝者も敗者も関係なく、誰であれ人はその夢に魅せられる。そんな脆いものに縋らなければ、救われないものを抱えている。
なぜか。
つい異聞帯と汎人類史の対比に囚われてしまうが、わたしたち人間という個人もまたいずれ終わるものだからだ。
いつか死を迎えるわたしたちは、根本から詰んでいるという点では変わりがない。
恐竜王がディノスたちに「おまえたちの物語にはどこにも『了』の文字が入らない」と言っていたのは、まさにこの話だ。
絶滅を受け入れることと、そのうえで何かを成そうとすることは矛盾しない。
いつか終わるから意味がないのではなく、何をしても意味は残るのだから、最期の時まで歓びを求め続ければいい。それが生命の本懐だろう。
勝敗だとか主従だとか真偽だとか、そういう垣根を越えた話だ。
そして、この都合の良い夢こそ、奈須きのこ氏が物語にずっと込め続けてきた思いであり、祈りなのではないかと思ってしまう。
この物語が、誰かにとっての輝ける星になって欲しいという祈りだ。
さらに言えば、その祈りの根底にあるのは、もっと単純な願いだ。
まるで少年が正義の味方に憧れるみたいな、シンプルな人間讃歌。
誰もが一度は夢見て、すぐに馬鹿げた理想だと切り捨てる。
TYPE-MOONの物語が放つまばゆいほどの光の核にあるのは、そんな叶うはずのないユメへの憧憬なのではないだろうか。
届かないと知ってなお、遥か頭上、輝く星に手を伸ばす。
私が感じ入ったものの根底には、そんな素朴な姿があったのかもしれない。
20周年を迎え、どんどんスケールアップしていくその歩みの最先端で、今一度足元を確かめるような物語が紡がれたことが、私はとても嬉しい。
あの時目にした輝きは、今も変わらずそこにある───。
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