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教育ログ6人目(公立・浪人→京大法)

0.今回の教育答え合わせさん

→公立高校から京都大学法学部に合格された二兎さん。今改めてご自身の教育を振り返った結果はこちら!

「現役で楽に合格していれば100点、浪人でスムーズに合格していれば75点としています。小学校~中学校の周囲の教育環境が低かったことが減点の大半ですが、自分のペースで自律して勉強に取り組んだことで最終合格に繋がったと考えています。」と語る二兎さんの教育答え合わせに迫ります!

※本企画は、難関大学合格者が幼少期からどのような教育を受けて、そして改めて振り返った上で、それが学業成績に「どう作用したか」という観点から思い出し・分析する、という趣旨となっております。
企画者及び回答者に、学歴社会の肯定もしくは高学歴を推奨する意図はございません。


1.回答者略歴


Q:お名前を教えて下さい。
→二兎

Q:年代を教えて下さい。
→40代

Q:ご自身の幼少期のキャラクターについて教えて下さい。
→内弁慶で負けず嫌い。ご近所の幼馴染に年上の人が多かったので、お兄さん、お姉さん達と同じことができるようにこだわっていました。
 
Q:ご自身の性格について、以下の観点でお答えください。

Q:最終学歴を教えて下さい。
→京都大学 法学部
 
Q:そこまでのルートを教えて下さい。
→公立小・中学校→(高校受験)→公立高校→一浪:河合塾

Q:大学合格時点での学習能力の自己採点をお願いします。

※各5点満点の6要素で15点以上となるよう配分をお願いしています。

Q:ご自身の各学習能力に関してどう考えていますか?
→同じ高校の同級生と比較すると、③は5Pとしたいところですが、京都大学合格者と比較すると平均的かと思います。目的に向かって努力するため、ストレス耐性や持久力、自律性はありますが、愚直に一つ一つマスターして漏れがないようにしないと不安になるタイプだったため、大人になった今考えると、もっと範囲を絞って要領よくできたのではないかと思います。そのため、③を3Pとしました。
 
Q:教育の得点配分を教えて下さい。

Q:得点配分の意図を教えて下さい。
→幼少期の教育方針でその後の大半が決まると思いました。小学校~中学校は、周りのレベルと合わないと苦労しますが、自律性をもって自分で考えることができ、ある程度の高校に行けるレベルであれば、あとは本人次第でなんとかなるように思います。


2.保護者の教育スタンス(配点25点)

Q:ご家族の最終学歴について教えて下さい。
→父親:地方国立大学
(現役・浪人と京都大学経済学部を受験したもののうまくいかず)
 母親:地方公立短期大学

Q:保護者の教育方針はどのようなものでしたか?
→「〇〇になってほしい」と言われたことはありませんが、父及び両方の祖父から教養(単に勉強ができるだけではなく社会一般の)のある自立した人間になりなさいという趣旨のことは言われていました。母は、父と遠距離恋愛の末に結婚し、父の地元に嫁いだのですが、その地域のことに明るくないため、教育方針は父に任せる、という方針でした。
 
両親とも、まずは色々見聞を深めなさいというスタンスだったのか、休みの日は美術館、観劇、音楽鑑賞等によく連れていってもらいました。また、私が幼少期から本が好きだったので、本をよく買ってもらいました。習い事は、ピアノ(一部グループレッスンで選抜がある)と作曲コースに通っていました。
 
Q:その教育方針はご自身の学業にどう影響したと思いますか?
→強制されることなく、自分で進路を選択できたので、比較的のびのびできたと思います。私自身、人から「これをやりなさい」と言われると反発したくなるタイプなので、両親の方針は間違ってなかったと思います。

Q:ご両親は学業に関してどんな接し方でしたか?
→介入することはなかったですが、父親は自分と同じ高校に進んでほしかったように思います。

幼少期から、いかに自分の高校時代が楽しかったか、行けば絶対楽しいよ、という趣旨のことを言われていました。調べるとある程度学力が必要なこと、親戚の男性の多くはその学校出身であり、絶対その点はクリアしてやるぞという気になったため自然に勉強するようになりました。

幼少期より、自分より身近な博識の人に追いつきたい、追いこしたい、という意識が根底にあったように思います。高校に上がってからは、学校の順位が良かったこともあり、クラブ活動や習い事に特に口を出されたことはなく、好きなことを続けさせてくれたので感謝しています。

Q:今振り返って学業につながった、家庭内の文化や習慣があれば教えて下さい。
①音楽鑑賞、観劇等
両親が音楽鑑賞や観劇が好きだったので、休みの日や小学校が終わった後によく連れていってもらいました。

②父の友人達との交流
小学校低学年頃まで、父の高校や大学の同級生達がたまに家に遊びに来たり反対にお邪魔していました。父はサラリーマンでしたが、友人には大学関係者や研究職の方が複数いらっしゃり、子供にも分かりやすいようにアカデミックな話をしてもらったことで、教養をつけたら自分の幅は広がるんだなぁということを何となく感じていました。

③読書の感想
上述のとおり、小さい頃は本を読むのが好きで、両方の祖父からもらった本や、家にあった両親の本を読み漁っていたのですが、読む度に感想や登場人物の心情をアウトプットして家族に説明していました。考えたことを自分で整理して説明できるようにすることは、いわゆる国語力を身に着けるのに役立ったと思います。

Q:ご両親の教育スタンスについての小計を教えて下さい。

今考えると、他のやり方もあったのかもしれませんが、特に不満もないため減点していません。
幼い頃より、なんでも自分で考えて選択したいタイプだったので、強制するとやる気をなくすと思っていたのかもしれませんが、それが功を奏していたように思います。
また、親の趣味である音楽について、ピアノだけでなく作曲まで習わせてもらったことで、結果的に自分は考える力がついてよかったと思っています。一人っ子だったこともありますが、教育や習い事にかかる費用を惜しみなく出してくれた親には感謝しています。


3.~小学校時代※小学受験含む(配点40点)

Q:小学受験はしましたか?
→していませんし、全く考えていないはずです。 
父の考えとして、父の出身校である上述の公立高校に行けば、そこまでおかしな進路にならないと思っていたことと、中学校までは地元の人と交流してほしいという考えの持ち主だったので、選択肢になかったと思います。。

Q:小学校の頃の学業成績について教えて下さい。(全6レベル)

→予備校に通うまで、塾に通ったことはないです(高学年からの英会話を除く)。中学年まではそこまで難しい勉強ではなかったので、2番、3番手の子とそこまで差異はなかったように思います。
高学年になると、国語や算数で読解力が必要になる問題が増えたからなのか、周りと差がついたように思います。勉強方法としては、学校の勉強の他に、中学入試用の問題集を購入して遊び半分で解いていました。

Q:小学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?
→勉強は全く苦ではなく、自ら机に向かうタイプでした。新しいことを学べるのが楽しく、モチベーションに繋がっていました。
高学年くらいになると、学校のテストよりもっと難しい問題を解いてみたかったのと、幼馴染のお兄さんが難関中学校に合格したことに影響を受け、自分がどれくらいのレベルか試してみたく、色々な私立中学校の問題を遊び半分で解いていました。

Q:小学校の教育環境についてはどう考えていますか?
→(小学5年生まで)1学年1クラスしかなく、わりと閉鎖的でした。個人的に色々な人から刺激を受けたいタイプだったので、同級生より少し年上の人と遊んでもらうことが多かったです。今考えると、先生のレベルはあまり高くなく、説明が分かりにくかったと思います。

(小学校6年生)進学予定の中学の学区が荒れていたため、両親の考えで比較的落ち着いたエリアに引っ越しました(同じ市内)。クラス数も増え、快活な人が多く最終学年が一番楽しかったです。また、人数が多いことで自分がどれくらい勉強ができるか、他の人と比較して見えるようになりました。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→学校の宿題の他、父と選んだ問題集を解いていたため、中学年くらいまでは他の小学生より少し勉強時間が長いかもしれません。高学年から勉強時間が増えているのは、それにプラスして後述する英会話の学習時間です。

Q:小学校まで習い事は何をやっていましたか?

Q:学習貢献度の高い習い事について、始めたきっかけを教えて下さい。
→(音楽系)
両親からの提案です。両親ともに音楽好きで、母親は私が幼い頃は音楽教室で先生をしていたのですが、自分の子に教えるのは私情が入って難しいということ、母親の先生仲間から情報を集め、優秀な子を多く輩出していると言われる先生の講義を受けるための試験を受けました。

(英会話)
母からの提案です。主婦仲間のお子さんたちは、私より少し年齢が上の人が多く、中学校に入る前に英語に余裕をもった方がいいよとアドバイスされたことがきっかけのようです。

Q:習い事についての振り返りをお願いします。
→グループレッスンと作曲はよい影響がありました。

(グループレッスン)
通常であれば、音大に入ってから学ぶような音楽理論や楽典を小学校1年生から叩き込まれました。きちんと音楽を学んだ方であれば分かると思いますが、楽典を理解するには読解力が必要なこと、ある程度の算数の能力は必要なことから国語と算数の能力向上には役立ったように思います。

(作曲)
上記グループレッスンでインプットしたことをアウトプットする場だったと思います。
自分の感性で曲を作っていきますが、楽譜に書き起こす際に上記の知識が必要となること、考えたことを全体のバランスを見て整理して譜面に起こす作業は思考を整理して分かりやすく記述する能力向上に役立ったのではと思います。

Q:今振り返ってやればよかったと思う習い事は?
→特にありません。

Q:小学校までの読書について教えて下さい。
→①日本の歴史シリーズ
出版会社は忘れましたが、縄文時代~明治期くらいまでの歴史や偉人伝を分かりやすく漫画にしているものです。頭が柔らかい幼いうちに、歴史を体系的に頭に入れることができたと思います。

②児童書(低学年くらいまで)
いわゆる名作と言われる書籍は親族からよくプレゼントされていました。

③単行本の類(中学年~)
習い事や友達との予定がないときは、家にある小説の類を片っ端から読み漁り、面白い著者の別作を図書館で借りていました。図書館には毎週通っていたと思います。

④和歌集(高学年~)
①  で平安時代が面白いなと思ったことから源氏物語で出てくる和歌に興味をもちました。母方の祖父が新聞記者で保有する大量の書物の中に和歌集等があり、母の実家に帰省した際は一緒に読んで互いに解釈した感想を言い合ったりして遊んでいました。

⑤新聞
中学年までは子供新聞、高学年くらいから普通の新聞を読んでいました。
祖父が新聞記者だった影響からか、新聞の気になる記事は興味をもって読んでいました。
 
物語、歴史、和歌等、様々な分野の書籍に幼いころから触れたこと、感じたことをアウトプットすることで体系的に理解する力、読解力、思考力、説明する力等には役立ったのではないかと思います。

Q:当時熱中していたことは何ですか?それは学業にどう影響しましたか?→作曲の習いごとです。

作曲を習う際に曲の構成を学ぶのですが、それに伴ってクラシック、邦楽に限らず人気のある曲がどういう構成になっているのか、分析して遊んでいました。他でも触れていますが、思考力、分析力などの向上に役立ったと思います。

Q:小学校時に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→高学年になった頃、父親が京都大学を受験していたことを父方の祖父から聞きました。私からすると、先生を含めた周りの大人の中で父親が一番賢い人だったので、父親が不合格になる大学ってどんなところなのかと興味をもちました。

なぜ父親を一番賢いと思っていたかというと、遊び半分で解いていた中学入試の問題のうち、行き詰った超難関中学の問題もすぐに解けていたのと、周りで起こっていることで分からないことを質問したらなんでも答えてくれていたので、私の中では「すごい」となっていました。

後述するように、大学受験まで塾に行っておりませんでしたが、父は旧帝国大学の数学レベルを少し時間があれば解けていたので父と高校の先生に聞けば事足りていました。

Q:小学生時代の教育環境の小計を教えて下さい。

→減点ポイントとしては、小学校低学年~中学年くらいまでの環境です。

同い年であまり賢い人が周りにいなかったのと小学校の担任の先生の説明が回りくどく分かりにくすぎて、教科書を読んだ方が早かったので小学校内では刺激が少なく持て余し気味でした。良かった点としては、高学年で大人数の学校に引っ越して自分の立ち位置が見える化された点と、読書や習い事を通じて自分の頭で考えるようになった点かと思います。

4.中学時代※中学受験含む(配点25点)

Q:私立の中学受験は考えましたか?
→考えていませんでした。
母親は小学校の先生から勧められたことがあったようですが、父親は地元志向が強く、中学校までは地元の中学校で過ごし、上述の公立高校に入れるようにすれば、何とかなると考えていたこと、当時住んでいた地域で女子の勉学好きな子が受験する中高一貫校となると、上述の公立高校の方が難関大への進学率が高かったことから地元中学に進むことになりました。

Q:中学行時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

→中学校入学から卒業まで、1番以外とったことがないです。
5教科の点数は、490点台が常でした。美術、音楽、体育、家庭科も得意だったので通知表の総合評価も良かったです(オール10かたまに体育が9くらい)。
一度、理科のテストの問題文を読み間違い、そこに紐づく設問を落としたため92点をとったことがあるのですが、「体調が悪かったのか?」と先生から心配されました。それくらい学校の勉強はなんの問題もありませんでした。

Q:中学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?

→ここでも塾には通っていませんでした。目標とする高校は通過点にしか過ぎないことを意識し、自分がどういう分野に興味があるのか知るために、父や祖父の仕事観を聞いたり本から調べたりしていました。

Q:中学校の教育環境についてはどう考えていますか?

→よくなかったです。私は子育ての経験はありませんが、子育てをすると仮定した場合、該当地域を選択しませんし、その地域に住み続けるのであれば、私立中学校受験の選択も視野に入れるでしょう。

他の地域に比べれば荒れていない地域を親が居住地として選択していましたが、それでも不良の子は一定数いましたし、周りの学習レベルも高くなく、自分の知的好奇心も満たされないことから、早く同じくらいのレベルの子が多い環境に行きたいと思っていました。幸い、友人には恵まれましたし、合わない人がいるのはどこでも一緒だと思いますが、あまりにレベルの低い人がいる場合、自律できない人はペースを乱され、ひきずられると思います。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

中1~2年は、小学生時代とあまり変わらず、学校の宿題、予復習、学校の勉強より難易度の高い問題集を各科目何種類か購入して解いていました。中3になると、目標としている高校には絶対受かると思っていましたが、併願高のことも考え、難関私立入試用の問題を買って対策をしていました。

Q:中学校時の習い事について何をやっていましたか?

(ピアノ・作曲)
学業と部活の息抜きになっていました。
(英会話)
英会話の先生が、学校の勉強を先回りして教えてくれたので、余裕をもって英語の試験対策を行うことができました。

Q:中学時代に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→がんばって思い出そうとしましたが、これといって思いつきませんでした。
強いていえば、中3くらいで数学の先生から、塾に行っていなくてこれくらいのレベルを維持できるのであれば、目標としている高校に行ってもかなり期待できる順位をとることができるよ、と言われたことです。

Q:中学校時代の教育を振り返ってどう評価しますか?

→結果的に第一志望の高校にはかなり余裕をもって入学できましたが、如何せん周りの勉強レベルと合わず、学校の授業がつまらなかったのが減点ポイントです。

公立中学校の場合、平均的な学生に合わせざるを得ないのはしょうがないとはいえ、もう少し学校でも高度なことを勉強したかった自分としては、習い事の年上の友人や目標校に通っている知人、書籍等から情報収集をして、高校にあがってどうすればいいか考えていました。受験期も習い事を続けていましたが、習い事の友人は目標校に通っている友人が多く、高校生活が楽しそうだったのでモチベーションを維持するのに役立ちました。


5.高校時代※高校受験含む(配点10点)

Q:私立の高校受験は考えましたか?
→第1志望の高校と併願です。レベルは第1志望と同じレベルの中高一貫の女子高です。

Q:高校時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→高校にあがってもあまり変わらず、学校の宿題、予復習、問題集を色々解いてみるというスタンスでした。

Q:高校以降はどんな習い事をやっていましたか?

Q:それぞれの習い事はどう活きたか教えて下さい。
(ピアノ)
作曲の先生が退職されてしまい、高校は受験期前までピアノのみ習っていました。完全に部活と勉強の息抜きでした。

(Z会)
学校の成績は良かったのと、先生からもおそらく現役で合格するだろうと言われていたので、塾に通わなくていいかなと思っていましたが、高校の先生の添削レベルだと不安になり、通信講座を受けていました。

今考えると、通信の場合、返却に時間がかかり、すぐに疑問点を確認できないので素直に塾に行けばよかったと思います。無意識のうちに、「塾に通っていないのにこの順位ですごい」と言われることに拘っていたのかもと思います。また、模試結果もそこまで悪くなかったので、慢心があったのかもしれません。

高校時代は順位にこだわりすぎて、京都大学に合格するための最短ルートの分析が現役で合格した人に比べて劣っていたと思います。

(河合塾)
浪人が決まったときはショックで、自分より成績が悪かった人が京都大学に受かっているので悔しかったですが、河合塾に通ってみると同じようなレベルの人がほとんどで、自分はこの中だと普通だから本当にがんばらないと1年後まずいと発奮しました。

浪人生に特化したコースのため、合格するためのカリキュラムづくりが秀逸で、ここで初めて現役のときの自分の計画だてが甘すぎたと痛感しました。

Q:高校以降の教育を振り返ってどう評価しますか?

高校は、中学校までと異なり基礎学力がある程度似通っている人たちの集団であり、落ち着いて勉強や部活に取り組むことができました。

また、母校で教鞭をとっている先生が多く、先生達の知識、教養レベルの高さに触れ、初めて授業を面白いと思うことができました。高校は進学校ではありましたが、先生達が学歴のみを重視するわけではなく、本人の個性を尊重して進路を提案していたことも私に合っていました。

例えば、学校の勉強に途中でついていけなくなったものの、本人に芸術の才能があるとみれば、芸大等も選択肢に入れて提示するような校風でした。結果、友人の中にはデザイナーになった人もいますし、OBには映画監督や誰でも知っているキャラクターの著作者もいます。そういう自由な校風で目上の人から縛られない高校生活はとても楽しかったです。

他方、上述のとおり、自分の順位に拘泥するあまり、今考えると現役のときは京都大学合格に特化した勉強ができておりませんでした。自分で自分のルールを決めてしまっていたのでしょう。結果、浪人することになってしまいましたが、予備校において合格するためにゴールから考えて何をすればいいか、徹底的にたたきこまれたことは、社会人になった今役立っていますし、結果的に合格したのでよしとしております。

5.答え合わせを終えて

→振り返ると、幼少期から学校の先生を除く私の身近な大人(両親、祖父母、習い事の先生)は、私を一人の意志のある対等な人間として扱ってくれていました。

頭ごなしに何か言われることはなく、どう考えているか、どうしたいか、自分の意見を自然に言える環境があったことで、のびのびと思考力を養うことができたのではないかと思います。

そして、社会人になった今、この「自分で考える力」それを「分かりやすくアウトプットする力」は非常に重要だと再認しています。同僚を見るにつけ、仮に大学が思うようなところに行けなかった人でも、自分で考える力、伝える力があれば、どこにいってもある程度の結果を出し、関係者から信頼を得ています。

現に私も、大学院卒業後に資格試験に落ちてしまい、20代は非常に悔しい思いをし、かなり絶望しました。しかしながら、ある程度の思考力があればそれなりの仕事につけますし、最初の仕事が思ったのと違う場合でも、自分に何があっているのか、正しく棚卸して自己分析し、俯瞰できる力があれば、きっと合う場所に自力でたどりつけると思います。そして、上記の力を発揮すれば、必ず周りの人から頼りにされる人財になれるのでは、と感じました。

6.編集後記

どうも、#1のカラシカシです。いや~凄いというか「凄まじい」ですね。
この企画を始めるにあたって想定していた「公立ルートから難関大学に受かるめちゃくちゃ秀才な人」のイメージにピタリと重なるのですが、その濃度が予想の5倍くらい濃かったです。「人間はこのくらいの年齢の時に、ここまで能動的に勉強に向き合えるものなのか!?」と衝撃を受けました。

この勉強への高い意識の形成要因については、やはり身近な博識な大人との関りが大きいのだと感じました。知性に対しての興味・関心、憧れを幼少期にどう持たせるかが、難関大学を自走して突破できるようになるためのカギだなと感じた次第です。

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