見出し画像

教育ログ11人目(公立・現役→理科大)

0.今回の教育答え合わせさん

→公立高校から東京理科大学に合格されたグランシャリオさん。今改めてご自身の教育を振り返った結果はこちら!

「第一志望の大学に無理なく現役で合格できた場合を100点、第二志望でも現役でスムーズに合格していれば75点という基準で採点してみました。小中高の間にもっと広い世界の存在を知る事が出来れば違う方向性もあったのではないか?特に小学生までの間にインプットと自主性を養う環境が欲しかったという意味で大きく減点し58点です。」と語るグランシャリオさんの教育答え合わせに迫ります!

※本企画は、難関大学合格者が幼少期からどのような教育を受けて、そして改めて振り返った上で、それが学業成績に「どう作用したか」という観点から思い出し・分析する、という趣旨となっております。
企画者及び回答者に、学歴社会の肯定もしくは高学歴を推奨する意図はございません。


1.回答者略歴


Q:お名前を教えて下さい。
→グランシャリオ

Q:年代を教えて下さい。
→30代後半 

Q:ざっくりのご職業を教えて下さい。
→品質保証
 
Q:ご自身の幼少期のキャラクターについて教えて下さい。
→競馬で例えると、馬群から付かず離れずのイイ距離感を保ちつつ、普段は気を許せる仲の良い友達(なぜか芸術肌多い)数人とつるんで悪さしたり(笑)、隠れ活発なキャラでした。
 
Q:ご自身の性格について、以下の観点でお答えください。

Q:最終学歴を教えて下さい。
→東京理科大学大学院 理工学研究科 機械工学専攻
 
Q:そこまでのルートを教えて下さい。
→公立小・中学校→(高校受験)→公立高校→現役

Q:大学合格時点での学習能力の自己採点をお願いします。

※各5点満点の6要素で15点以上となるよう配分をお願いしています。

Q:ご自身の各学習能力に関してどう考えていますか?
→苦あれば楽ありの精神で夏休みの課題などはコツコツ計画を立てて取り組む型であり、知らないことが知れる勉強は嫌いではなかったので、①自走力・自律力、③持久力・耐久性と④ストレス耐性は4Pとした。

同じ高校や大学の同級生と比較すると①に関しては、5Pとしたい所ですが、第一志望の旧帝大は落ちたので4Pとした。

一方、天才型ではなく、競合のいない一人っ子だったので、愚直に一つ一つクリアして進めており②要領の良さは、当時劣っていたと思います。

弱みである、②については、自分の中で問題意識があったので、なぜできないのか?、を徹底的に考え、器用に立ち振る舞っている人を観察してどうやっているのか、どういう着想なのか、そのタイミングにした理由、等を見て盗み、時に聞いたりして、それを真似る事で、感覚を研ぎ澄ましていき自分の中に染み込ませていく。
こうやって後天的にでも鍛え上げる事が可能な気がします。特に、社会人にとって本能力が高いに越した事はないので(笑)、継続は力なり、努力次第。
 
Q:教育の得点配分を教えて下さい。

Q:得点配分の意図を教えて下さい。
→親ガチャという他責の言葉は好きでないですが、しかしながらやはりそれなりの教養のある両親と周囲の環境が子供を取り巻く環境の全てである幼少期(①、②)の教育がカギを握る。素養は、そこで大半が決まるなと感じています。

ただこの二つで難関大学までの道筋が出来る訳では決してなく義務教育の次のステップ、どのレベルの高校に入学するか、を左右する中学での可変要素も十分大きいと思います。

進学校以外の高校から難関大学に行くのは、孤軍奮闘でやれる人以外、付き合う同級生や学習環境に頼るものが大きいと思い、③は高い配点としました。④高校に配点を残したのは、理系・文系この先どちらの道に進むのかを決めるそれなりに大事な時期であるのかなとの思いからです。


2.保護者の教育スタンス(配点30点)

Q:ご家族の最終学歴について教えて下さい。
→ 父親: 地方国立大学(現役)
 母親: 公立高校

Q:保護者の教育方針はどのようなものでしたか?
→「将来〇〇になって欲しい」と強要される事はなかったですが、両親の言う事は間違ってないから、何か言われたらその時はその言う事を聞け、という一方通行的な感じでした。

自分達が小さい頃、学校のプールで泳げない奴がいてみっともなかった(可哀想だった)からと、水泳教室にバタフライの資格を取る迄通わされました(せてもらった)。

まあ、水泳は出来る越した事はありませんが、私達はこんなに考えてとても親切、感謝せよ、という受け手である本人の意思が一切入らない、ジャイアン的な方針でした。
 
Q:その教育方針はご自身の学業にどう影響したと思いますか?
→自我が形成されて以降疑問に感じ異論を唱えても、その方針が変わる事もなく物理的な手段もあり、私にとって理になる事はないので帰順。

結果的に、難関大学と言われる大学を卒業しそれなりの会社に入れているので正誤の2択で言うと正なんだろうけど・・・両親の経験の範囲に収まってしまうという弊害があると思います。
 
良い成績を取るように励め、金払っているんだから、とマウントを取られているので、勉強は良い成績を取らないといけないものという強迫観念がある一方、これでは自分が持たないので自己を守る為に興味を見出し、同級生よりも良い点を取ってやると、ゲームのような感覚と考えるようにして保っていた感はあります。
(大学3年後期には、1つも履修しなくても卒業必要単位は足りていたが、成績順位を上げる為に、設定可能な講義を全て履修しその全てで最高評価を獲得する事に成功。成績順位向上に一役買ったし、ようやく一矢報いてやった感を得ましたね)

ないものねだりですが、「学力」を使って何をやりたい、という目線をもっと早くに持てていたら、違っていたのかと思います。また、両親の人生で遭遇しなかった物差しの範疇外の物事について取り組む事もほぼできなかったです。

Q:ご両親との距離感・関係性について教えて下さい。
→母親:高校時代自分が勉強をしたくても、家の経済的な事情で大学へ進学できず就職せざるを得なかった。その経験から、お前は経済的な縛りはほぼなく、恵まれているのだから励め、とかなりの積極介入(学習状況を適宜監視)型でした。

父親:平日は仕事でいないが、母親からのチクリが行っており、連携していました。
 
大学入学するまでこのスタンスは変わらなかった。その甲斐もあり現役で進学できたんだろうが・・。
大学入学後は私が両親の分野外の道に進んだので、落第なければ、とスタンスが和らぎ、やっと自主性を得る事が出来た。
 

Q:今振り返って学業につながった、家庭内の文化や習慣があれば教えて下さい。
→ 上記スタンスでしたので、(両親の経験の範疇内で必要と思う)教材や学習環境を整えてもらう事に関しては障害はなかった。

個人的に「今持っていれば・・・」と早くに身に付けたかった語学力や留学といった国際経験を積む事は、両親に経済的に扶養されている間は得られなかったのが悔やまれる。高校・大学の間に経験を積みたかったなと。
 
特殊な点としては、下記2つ。

ゲーム機: 母親曰く、父親が母親にゲームで負けたのが原因で、父親がゲーム嫌いで小学校高学年まで家にゲーム機がなかった(下校後、友達の家でやっていた)。

漫画: 父親が、漫画を読むとバカになる、活字の本を読め、という考えで、漫画も同様に小学校高学年まで家になった。その後も父親が居る時に読んでいると良い顔をされず、小言を言われるので、こっそり少量を保有するしか出来なかった。

Q:ご両親の教育スタンスについての小計を教えて下さい。

結果的に、難関大学に入り、大学院まで通わせてもらい一流企業と言われる会社に入れ今があるのは感謝だが、引っかかっている点が二つあり、減点。
 
加点:前述の通り。
減点:恐怖心を煽るようなマインドセット以外の手段はなかったのか?
減点:両親の経験の押し付け、彼らの範囲外の、もっと広い視野に触れられるような環境に早く身を置いてみたかった。


3.~小学校時代※小学受験含む(配点25点)

Q:小学受験はしましたか?
→してないです。全く考えていなかったと思います。
 
両親ともに公立卒で特に荒れている等なかった事から、恐らく選択肢の俎上に一切上がっていなかったと予想。

Q:小学校の頃の学業成績について教えて下さい。(全6レベル)

→学習塾には通わずに進研ゼミをやっていた。学校の授業でわからない事はなく成績もよかったと思う。高学年では居住場所柄、進学先として公立中学が多かった気がする。勿論、私立中学を目指す受験組もいたが、本気度は違ったんだと思う。

Q:小学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?
→両親の賞罰もあり、やらないといけないもの、という意識以外なかったが、幸い勉強が嫌いではなかったのがこの結果に結びついたのだと思う。

Q:小学校の教育環境についてはどう考えていますか?
→低・中学年:クラスに数名は習い事をしていたのかもしれないが、私と近しい人達は学習塾には通っていなかった。特に、荒れてもおらずごく普通の公立小学校。

高学年:(父親の転勤で別の土地に転校したが)学習塾に通っている子はクラスで数人程度いたが、多くは同じ公立中学校に進学する(特に競争意識も強くない)、ごく普通の公立小学校でした。

ただ、小学校の隣に旧帝大があり、XXX研究所(今考えると大学院の研究室)等が隣に多数所在しておりそれぞれの研究所でもオープンキャンパス的な感じで外部向けに展示・説明に触れる機会が多々あり、更に普段からキャンパスに自由に出入できる環境であったのでとても身近に理系に触れる機会がありました。このような環境が身近にあった事が、興味を持つきっかけにはなった気がします。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→学校の宿題や進研ゼミをほぼ毎日進捗管理されていたのでそれをこなしていた。

Q:小学校まで習い事は何をやっていましたか?

Q:学習貢献度の高い習い事について、始めたきっかけを教えて下さい。
→→進研ゼミは、母親がきっかけなのだが、おまけに釣られていたのと、理科の実験キットがけし好きで、まあ、うまくハマったんだと思います。

Q:進研ゼミってなかなか続けるのが難しいイメージがあるのですが、継続できた理由って何かありますか?
進研ゼミの締め切りを守り、小学校から先々長く継続できた理由は、二つあります。
・     母親が、かなりの積極介入(学習状況を適宜監視)型でしたので、小2位迄かな、締め切り日に間に合うように管理下の下、行っていた為
・     やがて自分で締め切り日を管理し、期限を意識して比較的計画的にコツコツとこなす下地が、必然的に身に付いた為

Q:習い事についての振り返りをお願いします。
→継続する事の大切さと、壁(出来ない事)に対して、乗り越えるにはどうすればいいのか、を考える事を習い事を通して学べたのかなと思います。

Q:今振り返ってやればよかったと思う習い事は?
→習字と音楽(演奏系)。
習字:「おっ、お主やるな」と思わせる字を書く人になりたい
音楽(:高校の友人がなぜか音楽関係が多く、一芸に秀でる事に憧れがある。また、音楽を聴くだけよりも弾ける方がカッコイイというのも大きな理由です。

Q:小学校までの読書について教えて下さい。
→小学校卒業するまでに約200冊程度だと思います。

児童書(講談社青い鳥文庫等での国内外の小説)の他に、唯一公認でマンガが読めた日本の歴史シリーズや世界の偉人の伝記、横山先生の三国志等
学校の図書館はよく利用していた記憶があります。

これら読書を通じて、巻数が多くて最初ビビるけど、日々読み進めていくと1/3,1/2と段々ゴールが見えるようになっていく楽しさや活字を読む事で、漢字の読解力などにも役に立っていたのかなと思います。それと、色々な本に触れる事で、情景を想像したり、引出しが増えたり、友人とその本について話しをすることで、同じ本でも色んな見方がある事を知ったりできていたのかなと思います。

Q:当時熱中していたことは何ですか?それは学業にどう影響しましたか?→友達との放課後の自転車やローラーブレード、一人の時はレゴブロックなど。

学業への影響ですが、前者二つは、体を動かすことで勉強との気分転換が出来ていたのかな。レゴブロックに関しては、作りたいものをイメージし、それをロジカルに考え、組み立てる楽しさを知るきっかけになったのかと、大きくなって思います。

Q:小学校時に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→特になし。

Q:小学生時代の教育環境の小計を教えて下さい。

→減点要因:小学校までに色々な習い事をして見分を広げておきたかったなと思う時がある。

低・中学年では、特に転校生も来ることもなく、人が同じだったので閉鎖的な印象があった。しかし、高学年の時に全く違う土地で、言葉(方言)も違う所で2年間を過ごせて得た経験は今も鮮明に思い出すこともあり、違う環境に身を置く楽しさを知れたことは、人生に与えた影響は大きいと思う。

勉強面でも上記が当てはまり、目的意識もなく、ただやっていただけであったが、高学年の時に隣の旧帝大のキャンパスや払い下げの出始めのMACなどに触れる事で、単純にかっこいいな、こうなるにはどうすればいいのかな、という事を考える気かけになり勉強した先の活かし方の一端を掴めた時期であったと思う。

4.中学時代※中学受験含む(配点30点)

Q:私立の中学受験は考えましたか?
→全く考えていなかったと思います。
 
両親ともに公立であり、転勤先であったことから、恐らく選択肢の俎上に一切上がっていなかったと予想。

Q:中学行時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

→中学1年の夏で転校して都内23区の公立中学へ。クラスは、3クラスあり、中学校入学から卒業までクラスで5番以内には入っていたかと思います(順位が張り出される訳ではないので伝聞の結果)。進研ゼミは小学校から継続。
 
中学2年の夏から、学区の進学校を目指すべく学習塾へ入塾。その塾は比較的少人数のクラスでの運営をしている所で、たまたま同じ中学から通っている人がおらず、それぞれ別々の中学から来た男3人と知り合う。
愉快な彼らと後に同じ高校を目指す事になり学区1番目ではなく2番目の高校を目指す事になるとは当時は思わなかった。学校での成績は、上位陣の構成は変わらず、抜きつ抜かれつ。
 
中学3年では、学習塾と並行して、週1回大学生の家庭教師もつけて勉強。
学習塾ではもう1人加わり、仲間が4人となり、学区1番の高校を目指して勉学に勤しむ。残念ながら、確実性がないなとヒヨッてしまい、なんだかんだで4人で同じ高校を目指す事に(笑) 結果、なんとか全員合格となったが今考えるとかなり危険な事していたなと。

今振り返ると、高校受験は大学受験よりもより無理のない確実な所を攻めていた。私の学力のあと一歩だったのと、塾で知り合った学友と一緒に高校生活を過ごしてみたいという思いもあったが、そもそも公立高校落ちた際に私立高校に通わせる気が両親になかったのかな、とも感じらえる(滑り止めの私立高校は合格だったが・・)。

Q:中学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?

→“勉強しないと賞罰が・・・・”という強迫観念・義務感だけではなく、どうせやらねばならぬなら“テストで良い点数を取りたい”という自主的な意識とほぼ半々でした。

Q:中学校の教育環境についてはどう考えていますか?

→公立の中学なので、独特な感性・考えをお持ちの変わり者の先生が多かった印象です。

実用英語ではなく、これぞまさしく英語が話せない日本人を量産する背景を伝えずただ文法を暗記するスタイルや、芸術は爆発だ!、を地で行かれている方など。

さらに、学校がそこそこ荒れていたのもあり、勉強以外の部分で頭を悩ませる事もしばしば。高校受験時に出す書類の一つ、内申書。コレが曲者で絶対評価ではなく相対評価というアンノウンファクターが大きく作用する代物。中学3年の時、オトナの事情ってやつに振り回される事に・・・。
私が、私立高校を目指さない事は中学2年から保護者面談等で情報が行っており、私立受験組に優位になるように意図的なものを露骨に感じる評点を希望受験先(公立vs私立)で付けられるという世知辛い事を経験。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

中1~2年夏は、小学生時代とあまり変わらず、学校の宿題、進研ゼミに加えて予復習をする程度でした。

学習塾に入って以降は、上記に加え、学校の勉強より難易度の高い問題集を各科目、学習塾の推奨かなにかで解いていました。
中3夏位になると、学区2番目の公立高校にはまあ受かるレベルで1番目を目指して追い込むか迷っていましたが、学習塾の仲間と良い感じで勉強出来ていたと思います。

Q:中学校時の習い事について何をやっていましたか?

中学では、受験英語だけだったので、話す英語を学んでおけばよかったなと今は思います(当時問題提起できなかった自分が悪いのですが)。
 
進研ゼミは、小学校からの惰性でやる事に疑問を持っていなかったですが、授業の先取りには役に立っていたのかともいます。これでは不足していると考え、学習塾を併用。
 
学習塾に通ったのは、クローズドの環境から目的近い仲間と切磋琢磨し合える環境になり良い方に作用したと思う。学力の基礎体力が上がったというか、高校入学後もその時に築いた物事の見方など貯金になった。自分事としていかに問題意識をもって現状を変えたいと思うか、このマインドセットが大事なのかなと思います。

家庭教師は、進研ゼミの仲介・紹介(現役大学生)で始めたのだと思います(うる覚え)。教わる内容としては、日常の勉強等のフォローアップだけではなく、受験時の心構えなどといった、直近で受験を経験した先輩から直接話を定期的に聞ける場があったのは良い刺激となったかと思います。

Q:中学時代に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→「励んで念ずれば花開く」

Q:中学校時代の教育を振り返ってどう評価しますか?

→過去は後悔しても変える事は出来ないですし、入学した高校の同級生とは人間的に面白い人が多く不満はないです。

しかし、当時学習塾の学友と同じ高校に行く、という楽な道に行かず、追い込みを続け学区1番の進学校へ進学していたら、大学受験では小学校高学年で知った旧帝大に合格できていたのかしら、との思いで15点の評点とした。


5.高校時代※高校受験含む(配点15点)

Q:私立の高校受験は考えましたか?
→少し考えた。しかし、両親共に公立高校出身ということもあり、公立高校進学を希望しており意に沿わない事をしようという強い意志はなかった。

Q:高校時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

高校は、一気に8クラスまであった。

高校1年:入学したらどんなすごい奴がいるのかドキドキであったが、私自身の予想に反してクラス2-3位内に入っており学年でも上位5%には入っていた。
この事が、高校は目標とする大学に向けて励む大事な期間である事を忘れ、井の中の蛙大海を知らずになり、狭い組織内で満足していた。学校の勉強だけで満足していて、より上位の問題にチャレンジしなかった。

高校2年:予備校に通い始め、今の自分の本当の立ち位置を知る。学校内では無難な位置をキープ。

高校3年:文系・理系にクラスが別れ、文系6クラス、理系2クラス。理系生徒の数が少なく競合が減ったが、頭のいい奴はいるもので、学校内でさえ、クラス1位含む学年トップの座は取れなかった。上位陣止まり。

Q:高校の教育環境についてはどう考えていますか?
→高校の教育環境は、自主性を重んじる校風でかなり裁量を任されていた。もちろん責任が伴う事も皆認識していた。

中学までと違い、受験というフィルターを経ていたので、頭の悪い奴はいなかった(=地頭がいい奴が多かった)。昔の名残で文武両道を推奨する校風であり、中学入学後夏までやっていたバドミントン、中学1年夏に転校した学校には部活がなく、しばらく離れていたバドミントン部があったので迷わず入部。

顧問の先生が数学の先生であったので、分からない所や問題集や参考書など色々サポート頂けたのは大きかったと思います。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→高校2年迄部活をしていたので、高1は予備校に行ってなかったので勉強時間は少なかった。高2から予備校に通い始め、勉強時間は増加。学校内では成績良かったのでそれで満足していたのが大学受験出遅れだったのか・・・でも勉強ばかりではなく高校生活を満喫できたのではと思う。

Q:高校以降はどんな習い事をやっていましたか?

(進研ゼミ)
完全に小学生時代からの惰性だったと思います。高校1年から予備校に通っている同級生がいましたが、3年間予備校に通い詰めて勉強する自信がなかったのと、何より予備校通い組よりも学校の成績が良かったので慢心していた。
 
(家庭教師)
予備校に行かない代わりとして家庭教師をつけてもらっていました。週1で2hrでしたが、理系の先生で理系科目に関しては、なぜこの解法になるのか、着目点なども聞けて勉強になりました。
 
(駿台)
井の中の蛙が大海を知れた場所。

高校では教わらず、気付かなかった効率よく勉強するための方法(数学の定石や、問題へのアプローチの仕方、出題者の狙い等)は目から鱗が落ちた。高校での勉強だけでは、高校に来ている私立大学への推薦入試枠を勝ち得る事はできるが、難関国立大学への道には通じていない事を肌で感じた。実際、高校から現役で旧帝大への合格者は限りなく0に近い数しかいなかった事から連想できればよかったのだが慢心していた。

そんな自分が今の本当の立ち位置を知れ、他の高校の同級生(=競合)と知り合え道に向け軌道修正を行えたのも大きい。さらに、女子校の可愛い子と同じクラスだった高校2年は別の意味でも楽しかった。

高校3年の春季・夏季・冬季講習では、志望する旧帝大(筑波大より北に位置)専門コースがあり、実力が違い過ぎて途方に暮れた。しかし、折れる事なく勉学に励み、安定のE判定から夏にはD判定になり、冬にはC判定迄伸ばす事が出来た。センター試験も足切りに会う事なく決戦の地まで受験しに行く事が出来たが結果は、第一志望は玉砕。後期日程の国立大学受験という手もあったが、私立大学の方が難関であったので、浪人の道を選ばず、私立大学へ駒を進めた。駿台で学んだ事は、大学に入っても活かせる事が多く、その先の人生で役立っている。

Q:中学時代に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→→事件・・・というと、敗者の弁ですが(笑)
・センター試験は、その後の受験を左右すると緊張しすぎてダメだった事
・ 足切りに合わずなんとか第一志望の旧帝大に臨めここでは、背水の陣で全力を出し切れた事
・しかしながら、合格通知(ネット)に自分の番号がなかった時に人生終わった!と思いました。受験で初めての敗北(正確には私立大学は学部違いで1勝1敗だけどw)、ショックで国立後期にメンタルを立て直す事が出来なかった。

そんな状況で誰から掛けられた言葉か忘れたが「大学入試が全てではない。私立でも難関大学であれば就職時に大学フィルターで落とされる事はない。受かった大学で頑張ってみては?」と、言葉をかけてもらえたこと、なんか救われた気がした。

Q:高校以降の教育を振り返ってどう評価しますか?


所属した組織で井の中の蛙にならず目的を忘れずに、何が足らず、何をしなければならないのかと問題提起をして行動する3年間を過ごしていたら、未来は違うものになっていたのではと過去のないものねだりですが振り返ると思います。

甘いも酸っぱいもあった公立高校での体験は、今の自分を形成しているので完全否定はしないですが、やれる事をやってきたかという観点から辛めの評点とした。

5.答え合わせを終えて

→他の皆さんのようにキラリと輝く何かがあるわけではない者でも、叩けば何かしら出てくるんだなと思ってもらえればと赤裸々に答え合わせという振り返りをしてみました。想像以上に大変でしたが、なにか得られるものがある事を願います。
 
企画者のカラシカシさんがご自身の記事の編集後記に、“「学力」ってどうやったら『いい感じに(自然に、なおかつ楽しく)』身につくんだろう”という提起があります。

私自身の経験だと、大別すると、2つが両輪になるのではと考えます。
片方の車輪は、幼少期に色んな経験を積ませる。旅行でも、博物館・美術館・コンサート等、身をもって感じられる機会を多く作り、これらを通して、どういったものがあって、何を吸収したいか、を考えられる様に、引き出しの下地を可能な限り多く作ってあげる事で視野を広げ、好奇心・想像力を養う助けをする事と思います。
 
もう片方の車輪は、親の経験の範囲からだけで物事を消えるのではく、子供に主体的に何に興味があるのか考えさせる事で自分に何が合っているのか、棚卸して自己分析し、俯瞰してみる力が養われる。その手段として、習い事や学習する環境を整える事になるのかと思います。
 
これら2つが両輪として、当人の「学力」となり、その道を極める為に前進するも立ち止まって別の道に進むも徐々に親のアシストありから、本人の意思次第となって行くのかな、と本振り返りで思いました。
 
遅かれ早かれ“自分で考える力”と“考えた事をアウトプットする力”は身についていくと思いますが、幼少期からのトレーニングでこの能力の深度に差が出てくるのでは?、と思います。
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。少しでもお役に立てれば幸いです。

6.編集後記

どうも、#1のカラシカシです。

子供の主体性をどう育むかという大テーマに関しての学びもありつつ、高校という場所は「学力」を身に着ける上でやはり大事なんだなと。

高校という環境に対して「中学までにキッチリ基礎学力つけてれば、あとは本人の『〇〇大学に行きたい!』っていう意思力の強さが大事で、別に場所はもうもはや関係なくない?」くらいに考えていましたが、その意思力の形成に高校という場の設定が大きく影響するんだなと改めて感じました。


よろしければサポートお願いします!サポートしていただいたお金は答え合わせ協力者のへの謝礼にあてさせていただきます!