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教育ログ9人目(刈谷・浪人→一橋社会)

0.今回の教育答え合わせさん

→公立の高校から一橋大学社会学部に合格された3番さん。今改めてご自身の教育を振り返った結果はこちら!

「30代後半の現在から見て”身に着けた勉強スタイルと結果が人生の充実度にどれだけ貢献したか”という視点で採点しました。変化の時代に生涯勉強する必要性を痛感しているので、もっと幼少期から自然と勉強を楽しめるよう育っていたら100点でした。実態はそこに至れず減点。しかし両親に応援され、部活に打ち込んだ後で浪人で勉強に打ち込んだ回り道、その要所要所で様々な恩師に会えた幸運は加点で、総合80点にしています。」と語る3番さんの教育答え合わせに迫ります!

※本企画は、難関大学合格者が幼少期からどのような教育を受けて、そして改めて振り返った上で、それが学業成績に「どう作用したか」という観点から思い出し・分析する、という趣旨となっております。
企画者及び回答者に、学歴社会の肯定もしくは高学歴を推奨する意図はございません。


1.回答者略歴


Q:お名前を教えて下さい。
→3番

Q:現在のご職業は?
→メディア・エンタメ業界

Q:年代を教えて下さい。
→30代

Q:ご自身の幼少期のキャラクターについて教えて下さい。
→生徒会長や運動部部長を進んでやるような自信家でした。体が大きくなるのが早かったので同級生に比べて相対的に運動が得意で、その自信が友達作りやいろんな物事へのチャレンジに好循環を生んでいたと思います。一方で末っ子次男の甘えた面もあり、片付けも苦手で、よく物をなくしたり忘れ物をしたりしていました。
 
Q:ご自身の性格について、以下の観点でお答えください。

Q:最終学歴を教えて下さい。
→一橋大学社会学部
 
Q:そこまでのルートを教えて下さい。
→公立小・中学校→(高校受験)→愛知県立刈谷高校→一浪(河合塾)

Q:大学合格時点での学習能力の自己採点をお願いします。

※各5点満点の6要素で15点以上となるよう配分をお願いしています。

Q:ご自身の各学習能力に関してどう考えていますか?
→全体的に課題の処理速度が速いタイプではありません。出題者の意図よりも難しく考えてしまうクセがあるようで、同じ大学の子が課題に対してちょうど良い深さ(浅さ)でパッパッパーと手際よく処理しているのを見ると率直に「タイプが違うなぁ」と感じていました。

なので「②」の要領の良さは低いです。集中力もゼロイチで「100%集中」「散漫」のどちらかになりがちで、ほどよい集中で走り続けることは苦手でした。大学現役合格組は「切り替え」または「並行作業」が上手のようでした。
「①」の自走力、特に計画を立てる力は低いです。どうなればゴールかはスタート時点の自分にはわからないと無意識に感じているので、そんな自分が立てた計画にも説得力がないとこれまた無意識に思っている気がします。
逆に、自分が信頼できると感じた先生について努力を重ねる価値は信じられるので、「③」の持久力・耐久力と「④」のストレス耐性は高いです。一橋生は素直な人物が多い印象なので、この③と④は皆さん高いのではと感じます。
「⑤」の理解力は、理解が早いわけではないのですが、意図を正確に汲むことを重視するので、一度理解できれば人にわかりやすく教えてあげられます。なので、丁寧に背景を教えてくれたり、質問を歓迎してくれる先生と相性がよく、テンポ重視で授業を進めるタイプの先生とは相性が悪かったです。
「⑥」の関心範囲の幅は広いはずなのですが、小中高では5科目以外の体育や美術、音楽などが好きでした。予備校での名物講師の授業は各教科の印象が変わるくらい面白いものも多く、エンタメ感覚で楽しく聴いていました。担当教師含めた教科との出会い方は非常に大切だと思います。苦手になった教科にも、講師を変えて出会い直せるということは予備校で知りました。
 
Q:教育の得点配分を教えて下さい。

Q:得点配分の意図を教えて下さい。
→①の保護者スタンスは②~④の全時期に関わる基盤なので高めです。②小学校と③中学校で「自分はやればできる人間」と思えるか否かが④の目標偏差値の上限を決めると感じたので全体の半分を配分し、特に学力順位という概念がシビアに出てくる③中学校を高めにしています。④は受験に直結しますが浪人など取り返し方もあるので相対的に低いです。


2.保護者の教育スタンス(配点35点)

Q:ご家族の最終学歴について教えて下さい。
→父:大阪大学基礎工学部
 母:梅花女子大学英米文学科
 兄:信州大学大学院

Q:保護者の教育方針はどのようなものでしたか?
→「何事も頑張りなさい。勉強も当然頑張りなさい」という感じでした。頑張っている分には勉強も部活や生徒会活動のような課外活動も同様に応援してもらえていました。
 
大枠として出来るだけ良い大学に行ってもらい、良い仕事に就いてもらいたいという展望は持っていたようですが、「絶対●●大学」「良い仕事とは●●」といったこだわりはないようでした。子供の時間の使い方に対してはさほど干渉された記憶はありませんが、寝坊や夜更かしについては割と叱られました。

何事も「一生懸命取り組む」「人に教わる時は礼節を重んじる」といったことは大切にするよう折に触れて言われていました。勉強にもその姿勢を適用され、「勉強が大事だからとにかくやりなさい」というより、「何事も一生懸命やるのが大切、勉強も例外ではない。当然全力でやるべし」というイメージです。一方で、僕自身は受験を前向きなチャレンジと捉える高校や友人たちのおかげで大学受験に疑問を持ちませんでしたが、仮にスポーツ選手や芸術家など両親が想像できる範囲外の進路を目指していたら快く応援してくれたかはわからないとは思います。
 
Q:その教育方針はご自身の学業にどう影響したと思いますか?
→「ベストを尽くす」は姿勢として良いのですが、今思えばガムシャラな脳筋スタイルで取り組んでしまうことが多く、ゴールへの近道を探したり省力化するなどの要領の良さはあまり身に付きませんでした。
 
「ベストを尽くし、結果を取りに行く」が目標になっていたので、基本的には知識が増えていくことよりもテストで良い点を取ったり、いい大学に入ることを目的と捉えるようになっていたと思います。純粋な向学心や知的好奇心が芽生えて自走して勉強する、という形ではありませんでしたが、純粋な興味関心から打ち込んだ部活動も全力でやらせてもらったので勉学に励む際に空虚さは感じずに済みました。

Q:ご両親は学業に関してどんな接し方でしたか?
→本人なりに前向き・真面目に取り組んでいる分には、未熟な結果への言及はほとんどありませんでした。志望についてはそれとなく誘導するような接し方でした。
 
良さそうな参考書や塾、ひいては大学などもそれとなく僕にみせ、興味をもたせるようには動いていたように思います。基本的に応援してくれ、習い事も多くさせてもらいました。参考書など勉強に関するものが欲しい時には迷わずお金を出してくれました。恐らくそういう時のために本人たちは贅沢しないようにしてくれていたのだと思います。高校で数名がイギリスの姉妹校にホームステイするプログラムに応募する際も応援してもらい、通過後は両親は外国に行った経験もない中で嬉しそうに送り出してくれました。

小学5年時の先生の経験からはじまる「高い視座、広い視野」への憧れから東京の大学を希望していたのですが、父の「東京に行くなら地元の名門・名古屋大学よりもいい大学に行ってもらわないとなぁ」という条件に「まぁ確かに」と納得して、東大以外にも条件に合う国公立大はあるのかと探しているところで父に「こんな大学…知ってる?」と隠しダンジョンへ招くような口ぶりで一橋大学の存在を聞かされ志望するようになりました。両親にとって自分は、寄り道はするものの誘導しやすい子供だったようです。

Q:今振り返って学業につながった、家庭内の文化や習慣があれば教えて下さい。
→両親や兄の経験を次男の僕に活かしてくれていました。

具体的には、兄が地元の学習塾にいくつか行って、体当たりで良い・悪いを知ったおかげで、弟の自分は最初から信頼できる学習塾に行けました。父が兄に対して勉強を促す際の厳しすぎたこと・甘すぎたことも僕への接し方に反映してブラッシュアップされていたと思うので、兄の先陣に甘えて自分が得する位置で申し訳ないなと感じることもけっこう多くありました。

母は主婦をしつつ書道をライフワークにしていたので「単純に見えることもトレーニングを続ける」という姿勢を見て育ちました。

父は技術職で夜遅くに帰ってきて、休みの日には子供たちと遊んでくれました。逆に言えば、真面目であるものの父が勉強している姿は見かけませんでした。今思えば、「知識を広げ、向上し続ける」というより「特定のテストに向けてスキルを磨く」という勉強への取り組みスタンスは家族の影響だったかもしれません。父は本人が浪人していたので、僕や家族の中でも浪人の選択肢に抵抗はありませんでした。基本的に家族全員真面目で、転勤もなく、芸能人の大ファンになったりギャンブルにハマったりということもなく、純朴な学生生活を過ごす環境をもらえたと思います。

Q:ご両親の教育スタンスについての小計を教えて下さい。

完璧に非の打ちどころのない教育的な親、とは言わないものの、子供の可能性を広げるために親自身も試行錯誤しながら全力で応援してくれていました。
 
自分に対して存分に投資(回収が目的ではないですが)してくれているとよく感じていました。一方でプレッシャーはあまり与えてきませんでした。僕は数学が苦手で、父は理系で数学が得意だったので時々家で教わっていました。理解が遅いこと自体は気にされなかったのですが、途中の式を丁寧に書かなかったり計算ミスなどをすると目に見えてイラっとしていることが伝わり、ピリピリした雰囲気になることも多かったです。

夏休みの宿題が終わらないときに手伝ってもらうどころか一部代わりにやってもらったこともあり厳しいのか甘いのか判断に迷うところもありますが、「まずはルールを守れ、話はそれからだ」という圧は感じていました。ドンと構える「理想の上司」といった感じではありませんが、ヤキモキしながら共に戦ってくれるようなスタンスでした。


3.~小学校時代※小学受験含む(配点20点)

Q:小学受験はしましたか?
→していません。受験をして小学校に入るというシステムの存在を当時知らなかったと思います。
 
自宅から田んぼを挟んですぐ小学校という環境で、兄も通っていましたし、幼稚園の友達もほとんどみな同じ公立小学校に行く環境でした。両親も公立小出身ですし、小学校を誰かの意思で選ぶという発想が我が家になかったと思います。

Q:小学校の頃の学業成績について教えて下さい。(全6レベル)

→この頃の勉強はクラス全体の理解にあわせて進んでいましたし、あまり差が出るような機会がなかったと記憶しています。

Q:小学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?
→受験につながる武器を磨くような意識はなく、「九九を覚える」などのイベントがスタンプラリーのように“大人の階段”の上にあってやらなきゃ登れない、というイメージでした。学年順位などは出ないシステムであまり明確な競争意識もなかったですが、点数が良いことで得意げな気持ちになったり、通知表がオール5でないことにがっかりしたり、前回オール5だったという子に再び負けて悔しがったりした覚えはあります。

Q:小学校の教育環境についてはどう考えていますか?
→一般的な公立の小学校で特別な教育はされませんでしたが、学校を嫌わず通えたのは幸いでした。

校則は「まじめに なかよく がんばろう」で、振り返ればまさにそんな感じでした。個性を重視しすぎることもなく、変わった行事などもなく、地元の一般的な公立小学校でした。1学年4クラスで各40人前後と、友達のできやすい環境でした。当時はセキュリティもおおらかで、大人も子供も自由に使ってよいだだっぴろい校庭があったので、よく前後1~2学年の友人で放課後バスケットボールをして遊んでいました。

もう数年したらヤンキーになりそうな子も、ならなそうな子も一緒に汗を流していてユートピア感さえありました。しかし卒業間近に別中学で離ればなれになる小動物ぽい友人が「僕みたいな小さいやつはイジメられちゃうから、不良にならなきゃいけないんだ!」と、初めて見る鋭い目に涙を浮かべながら煙草を吸う練習をしていたことは今でも覚えており、こうした子たちまで安心して進学できるほど行き届いた環境ではありませんでした。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→宿題を家でやる程度でした。中学年までは授業で聞いて大体ついていけていたのですが、高学年の時に、例の漫画とオマケにつられて進研ゼミをはじめました。3日坊主でしたが、予習したところはやはりクラスメイトより理解が早く、手ごたえ自体は感じられたことを覚えています。でも勉強自体が楽しいという感覚にはならず、自然と手に取らなくなって退会しました。

Q:小学校まで習い事は何をやっていましたか?

Q:学習貢献度の高い習い事について、始めたきっかけを教えて下さい。
→兄がやっていたことを真似したがったのと、英会話とピアノは親からの提案だったと記憶しています。

「こんなのあるけどやってみる?」と。基本的に好奇心が強かったので提案を断ることはありませんでした。英会話は「将来のため」といった大まかな目的で、特に勉学というより英語でのコミュニケーション力の習得を期待していたように思います。

Q:習い事についての振り返りをお願いします。
→英会話は苦手意識の有無が強く影響すると思うのですが、勉強として習い始める前にネイティブと会話して英語自体になれていたことは非常に良かったです。ゆくゆく必要になる受験勉強で使うような構文には到達せずとも、英語でとるコミュニケーションの場があって「お勉強」として出会わなかったことは幸運でした。証拠に「お勉強」として大学で出会った第二外国語のドイツ語は一切身につきませんでした。

ピアノも、楽譜が読めるだけで音楽の苦手意識はなくなるので、無意識に慣れ親しむことが非常に大切だったと思います。「こういう曲だからこう表現する」などの発想で感受性も豊かになるので、直接的に国語の成績に、間接的に他の教科の理解と表現に影響していると思います。

ソフトテニスは後に部活動も一生懸命になりすぎて勉強時間を奪っていくのですが、勝ったり負けたりして緊張したり悔しがったり喜んだり…という一通りの感情を発散しながら自分の性格を知っていけたのは長い目で見ればプラスでした。

Q:今振り返ってやればよかったと思う習い事は?
→学力に関する塾はやれるだけやっていたと思われます。やっておけばよかった習い事は歌です。人より歌が苦手という意識があり、一方で人並み以上に歌うことが好きなため。今の時代Youtubeなどで収益化の可能性もありますし、知り合った方とカラオケや一発芸で仲良くなるためにも汎用性の高いスキルだと感じます。

Q:小学校までの読書について教えて下さい。
→本好きと呼べるほど読書量は多くありませんでしたが、嫌いでもありませんでした。

低学年の頃は図形の描いた絵本が好きでした。まる・さんかく・しかくの本や、「赤の本」などの色が統一されたシリーズなど。「ビッグ・オーとの出会い」も、シンプルな絵柄が好きでした。すべてを言葉でつづってくれる本より、情報量の少ない本を読んで空想で好きに補完することが好きだったのだと思います。

中学年の頃は偉人の伝記をよく読んでいました。人生の最初から最後までを通読できる伝記は転換点や原体験などがわかりやすくて理解しやすかったのだと思います。また、怖がりの怖いもの見たさで教室にあった「学校の怪談」を読んでは縮み上がっていました。

高学年になって外で遊ぶことが好きになり、あまり読書はしませんでしたが、唯一「ああ無情」だけはなぜか「読んでる自分、カッコイイ。ジャン・バルジャン、語呂がいい」と思いながらしっかり読んだ覚えがあります。あとは工作の方法を書いた本を手に真似していました。

振り返ると、この頃の読書は知識を得るより想像力を刺激するものでした。もっと言うと本には書いてない、頭の中で勝手に連想・二次創作するシーンが自分にとってのメインコンテンツであったと思います。ゲームやテレビでも同様でした。もっと多読していれば博識で知的好奇心の盛んな子に育っていたであろうことは想像できるのですが、自分の場合は読書量の少なさから学力への影響はあまり大きくなかったと思われます。

Q:当時熱中していたことは何ですか?それは学業にどう影響しましたか?→土日に地域のソフトテニス教室に通っていました。

友達の父兄が意外と名選手だったり、年齢層もおじさん・おばさん~おじいさん・おばあさんといった幅広い先生から、地域の子たちが習っていました。基本的にタブルスの試合ばかりなので、自分以外の人と一蓮托生になり、それでも勝ちたいときにどう接してどうプレイするか、ということを無意識に考えるようになりました。プレー人口が少なかったこともあり、県代表になり、全国大会に出たりもする中で、なんとなく地元に骨を埋めるのではなく全国区の目線が出来たのは東京への進学に少し影響したと思います。

Q:小学校時に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
小学校5年生の頃の担任の先生に強く影響を受けています。

ある日委員会の作業で遅くなって教室へ戻ると、先生がクラス全員分の習字を壁に掲示していました。熊っぽい見た目の先生は普段授業中や団体行動時にふざけてしまうやんちゃ坊主をよく叱っていたのですが、その日掲示されたやんちゃ坊主の習字の出来が悪い方に目立っており、「これ、このままだとあいつかわいそうだよなぁ」と言ってちょっと上からきれいに整えてあげていました。

今思えば「人の作品に断りなく手を加えるのはいかがなものか」とも言ってしまいそうですが、当時小学生だった自分は「普段面と向かって叱っていても、恥をかかさないように本人にも見えないところで助けてあげてるんだ」ということが衝撃的で、自分が「できるだけ広い視野を、高い視座を」と意識したのはこの時だったと思います。それが生徒会活動や、東京への進学、志望企業の選択などにつながっており、勉強のモチベーションにもなりました。

その後、その先生が特別支援学級の担任の先生になったので、よく遊びに行くようになりました。特別支援学級には下の学年の子しかいなかったのですが、特別支援学級の子たちと遊んでいるとその子たちの父兄の方々がとてもうれしそうにしていたのが印象的で、「子を想う親」というのを初めて客観的に理解した気がしました。個人的にはそのクラスでは身の回りの大人も、子供たちも、普段いるクラスよりちょっとおおらかで優しい空気感だったので居心地がよかったことを覚えています。

Q:小学生時代の教育環境の小計を教えて下さい。

→学力の面では特別な加点要素も減点要素もないくらい、普通の公立小学校の普通の勉強という感じでした。その後の人生観や向上心のベースとなる「高い視座・広い視野」への憧れを抱けたこと、そういう話を背伸びしてでも大人の先生と会話できたこと、はとても幸運だったと思います。

4.中学時代※中学受験含む(配点30点)

Q:私立の中学受験は考えましたか?
→考えませんでした。この時も、受験して中学を選ぶという発想がありませんでした。兄が通っていた中学に自分も行くのだとしか思っておらず、小学校の半数の友人が学区の関係で別々の公立中学に進学しましたが、そうした進路を意思がどうこうできるという考えがありませんでした。中学で部活や勉強を一生懸命やろう!くらいの気持ちでいました。

Q:中学行時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

→真面目に勉強する子、なんとなく過ごしている子、あまり勉強が好きではない子、に分かれており、勉強する子は基本的に同レベルで勉強できていたように思います。自分も大人たちが驚くほど抜群に成績が良いわけではありませんでしたが、想定の範囲内で優等生、といった立ち位置であったと思います。

逆に、勉強ができること自体がカッコ悪い、みたいな不良文化がなかったのは幸いでした。あまり確固たる自分をもっていたわけではないため、思春期で何にどうフィットしてしまうかわからないため「勉強しない」に価値を見出していたら成績は悪かったと思います。

Q:中学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?

→テストの度に学年順位とクラス順位が個別に配られるので、勉強というものを段々、みんながやる「一般教養」から競う「学力」という認識になっていきました。具体的には、友達の中に「足の速い人」とか「肩の強い人」といったカテゴリしかなかったのに、自分の中で「頭のいい人」というカテゴリが生まれました。

Q:中学校の教育環境についてはどう考えていますか?

→際立ってグレた子もおらず、素直な友人たちに恵まれました。

教師の皆さんも生徒を上から押さえつけるような素振りを見せず、一人の人間として人生相談や恋愛相談などに積極的に乗ったり、何かで元気がないときは夜に家まで電話をくれて30分ほど話したりなど、生徒思いな担任に恵まれました。校長先生が「教師人生で1、2を争うくらい、充実した学年だ」と話していました。今思えば先生の中には多くの尊敬できる大人の中に尊敬できない大人も交じっていましたが、当時の生徒たちは素直に言うことを聞いており、先生方もやりやすかったのではと思います。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

中1~中3前半は部活動と生徒会活動に励んでおり、勉強は宿題をやる程度でした。進学校を受験すると決めてからは地元で有名な進学塾に通いました。よく寝る人間だったので勉強時間も極端にながくはできなかったのですが、受験へのプレッシャーから空いている時間は勉強にあてるようになっていました。

Q:中学校時の習い事について何をやっていましたか?

→一番直結していたのは学習塾で、次が英会話でした。

地元で勢力を拡大している熱血系進学予備校に通っている時は、新しいことを学ぶライブ感がこんなに楽しいのかと興奮した覚えがあります。実際にわかりやすく、講師もかなり確信をもって授業をしてくれるので安心してついていけました。熱意にあてられて勉強自体も楽しかったです。ひとりだけしどろもどろの新任の先生は生徒たちにナメられているのを見て気の毒でしたが、それと同じくらい生徒から見ても「未熟だなぁ、もっと準備してくれないと…」とも感じたくらい、他の先生が熟練でレベルの高い講師陣でした。

Q:中学時代に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→カナダ出身AET(アシスタントイングリッシュティーチャー)の先生が英語でよく話しかけてくれました。実際に日本語がどれだけできるのかはわかりませんでしたが、平易な英語でも「英語話せる人がいてよかったよー!ありがとーう!」というノリで英会話する理由をくれたので、英会話を習っていたことにテストの点数以上の価値があった気がしてうれしかったことを覚えています。

Q:中学校時代の教育を振り返ってどう評価しますか?

→大学や社会人になってから出会う進学校の子たちのような洗練された効率的な学習環境ではなく、親御さんの世帯年収やご職業など、いろんなタイプの子が混ざっていました。

結果、「勉強出来るだけじゃ自慢できないんだからな」という価値観も「勉強しっかりしなきゃダメだよ」といった価値観も当たり前に併存しており、結果的に思春期特有の反動・反発で勉強に拒否感が生まれることもなく自然と勉強に取り組めたと思います。学年で1番など突出した成績ではなかったものの、勉強に苦手意識も生まれず課外活動含めて自分の自信につながった期間だったので25点です。


5.高校時代※高校受験含む(配点15点)

Q:私立の高校受験は考えましたか?
→第一志望としては考えませんでしたが、滑り止めで学校調べはしていました。私が検討している学区では公立の方がオーソドックスな進学校でした(現役で東大に数名入る程度)。ちょうど公立の志望校に兄が行っていて楽しそうだったので私も公立で志望するに至りました。

Q:高校時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

進学校であるものの部活に青春をかけてしまったため、学力ではクラス順位も学年順位も自分の定位置を見つけることが難しかったように思います。

特に数学で明確な苦手意識ができはじめ、2年生の文理振り分けでは父・兄と違って文系に進みました。数学の先生が板書で必ず計算ミスをするおじいさんだったので、頭にまったく入ってこず苦手に拍車をかけました。中学までは順調だった分、授業についていけない事態にうまく対処できず、予習復習などでリカバリーをしないままいつの間にか「理解しきれていない」に違和感を持たなくなっていました。定期テストの度に疑問点を潰すよう努めるものの、喉元過ぎれば熱さを忘れてまた部活に明け暮れる、という付け焼刃を繰り返していきました。結果、部活を引退して受験までの間では間に合わないレベルの学び残しが溜まっていました。

「自分自身への期待度は高い」「現状の学力は高くない」という時に、どんな塩梅でゴール設定をするのかは個人差が出ると思います。出身大学がその後も続くひとつのレッテルになるとは感じていたので、僕の場合は「自分への期待度は高いまま、学力の方を追いつかせる」という考え方になりました。浪人が許される環境だったのも助かりました。

「成績良くないのは部活頑張ったから」という考えは、現役時代はただの言い訳でしたが、浪人では「枷を外したから出来るハズ」というモチベーションになり、自尊心を守ってくれたと思います。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

Q:高校以降はどんな習い事をやっていましたか?

最寄り駅前にあった河合塾系列の塾は、友人たちはうまく活用していたのですが、僕にはレベルが高かったのか、またはわかりやすさのレベルが低かったのか、毎週消化不良で毎回「…?」と思ったまま帰宅していました。

一転して浪人中の河合塾千種校は河合塾の総本山的な位置づけで、全国区の人気講師がわかりやすい授業をしてくれ、得意科目(国・英・社)も苦手科目(数)も成績が伸びていきました。予備校は同じ教科でも自分の希望する講師のコマをある程度選んでカリキュラムを組めたのも良かったです。相性は本当に大切だと感じました。模試では教科によっては全国1位、偏差値83、といった成績を収めることもでき、「真剣に時間と労力をかければプロレベルになれる」ということも実感できました。

英会話は大学受験レベルになると「お勉強」として文法など学ばないと太刀打ちできなくなりますが、リスニングなど「自分は定期的にネイティブと話してたんだから」という自信は、実力以上に「できるはず」の粘り・集中力を生んでと思います。

Q:高校以降の教育を振り返ってどう評価しますか?

高校時代3年間は8点満点中2点、と浪人時代1年は7点満点中7点としました。

高校時代は文武両道を目指したものの部活にかまけてしまい、学力的には志望校に届きませんでした。ただ難関校レベルには至らなかったものの、センター試験で7~8割までは取れていたので浪人のスタートラインを上げられたことで2点加点。浪人時代は質・量ともにやりたいだけ勉強でき、結果も伴ったので7点満点です。

5.答え合わせを終えて

→振り返ってみると、僕が受けてきた教育は
①部活動や生徒会活動などで自分自身のポテンシャルへの期待度を上げる
⇒②学力も例外ではないと思える程度に習い事や親の補助を駆使してついていく
⇒③自分の人生の期待度に見合う志望校を決め、充分な学力になるまで浪人してでも帳尻を合わせる
という順序でした。

親が不器用なりに愛情を注ぎ、後ろめたい思いで自分を見損なうこともないよう真っ直ぐをこだわって導いてきた結果だと感じます。現役で東大医学部とか、海外の名門大学など、学力面で上を見ればキリがないですが、大学生活も充実していたので結果に満足しています。

これまでの人生、自分の学歴で物事が完璧に運ぶということはありませんでしたが、「お守り代わり」といったレベルのメリットはよく感じ、そのお守りが意外と人生において重要であるとも感じました。多少ボンヤリしていても「頭が悪い」といわれる心配が減りますし、「学歴とかあんまり関係ないですよね」というスタンスをとっても僻みに見えず話を聞いてもらいやすく、大人になってからの学習機会でも「自分はきちっとやれば勉強できるはずなんだ」という自己肯定感につながりました。

一方で、高校時代に部活と勉強を両立できなくなってからは一方(勉強)を後回し(浪人)にして、一方(部活)に集中する、という方法を選んだので、効率よく物事を両立する勉強法を確立できなかったのは勿体なかったとも感じています。現代は変化の時代ということもあり、大学入学後・卒業後も勉強を続ける大切さを実感しているので、もっと幼少期から息を吸うように勉強を楽しめるよう育っていたら各段階でもっと高い点になっていたと思います。一方で課外活動などの回り道をしながら勉強に耐えられる人格形成を経て、要所要所で様々な恩師に会えた幸運にも恵まれ、「学力」と一口に言っても勉強方法だけではない様々な要素で構成されているものと感じました。

6.編集後記

どうも、#1のカラシカシです。公立高校から一浪を経て難関大学を合格、さらに受験当初は志望校との学力差がありと、自分との共通点が非常に多い方でした。しかし、共通点が多いにもかかわらず、「だいぶ自分と違う!」とも感じました。

自分の答え合わせと読み比べてみて、その差異は『勉強に対しての真っすぐさ・ポジティブさ』、ここらへんに起因していると分析しました。3番さんのこの資質は、ご家庭の教育方針である「何事も頑張りなさい。勉強も当然頑張りなさい」これがまさにそのまま具現化されたものだと思うのですが、教育方針が具現化出来たポイントして以下の2つがあると僕は考えました。

教育方針が…
・シンプルで幼少期から理解しやすい。
・勉強に限った内容ではないために特別感がなく、「明らかに正しそう」で納得しやすい。

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