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言葉のインチキを信じる

20210116

「あの人はやさしい。」
っていう、よさげな字面を、つい使っちゃう自分がいるのに、ふと気づく。

やさしい。

僕の場合だけど、やさしいって言葉を使う時は大抵、今の自分にとって都合がいいってことだけを指してることが多い気がしてならない。ようは“いい人”。

昔身近にいたAさんがよく、やさしいって言葉を使ってた。「◯◯はやさしい」とか「ぼくは/わたしはやさしい」みたいに。

誰かが、自分が、やさしいかどうかが、Aさんのの中では大切な指標だったのだろうか。

Aさんについて思い出してしまうのは、「親友のXはやさしい」と言いながら、それと同時に、「Xにはいっぱい投資したのに」ということも、僕の隣で言っていたことだ。

その時は何の気なしに聴いていたのだけど、たまに、アレは一体何だったのだろうと思い返す。

そうして、やさしいって何やねん!?と我が身に、まわりに、問いかけるキッカケの出来事だった。

といいつつもなんやかんやで、やさしいってことが、ゆるぎなく正しいこととして、自分の中にドヤ顔でのさばっているのは感じる。

無闇矢鱈に傷つけるのはアホウだなあと思うけど(そんな側面が僕の中に確実にあったりして情けないのだけど)、常に万人にやさしい(=“いい人”)なんてのもありえないはずで。

というかそもそも、形容詞がよくないのかもしれない。

やさしいっていう形容詞は、使った時点で、僕の、誰かの、何かに対するジャッジが入ってる。やさしいモノとやさしくないモノの線引きが生まれてる。

やさしさって名詞ならどうか。何かをやさしさって名指すわけだから、こちらも線引きはある。

いや、言葉のそもそもの、ベースとなる機能に線引きがあるんだろう。

何かと何かを区別し、切り分ける。
ある主観からだろうと、客観を装おうと(たとえそれが科学的手続きでも)、変わらない。

言葉を連ねることで、切り分けない、つなぎとめるような言葉はあるだろうか。

きっと、詩として知覚される言葉は、そんな力を持つんだろうなあと思う。

形容詞だからとか、名詞だからとかっていう、品詞一個一個の問題ではなくって、品詞の連ね方にこそ、詩があるのかもしれないなと思う。

何かをやさしいと断ずるのではなくて、何かと何かの間にやさしさらしきが生まれるように。

品詞のインチキを信じて、書く。

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