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自然と身体(ドーム映像作品『HIRUKO』)

20211011

先日10/3、ドーム映像作品『HIRUKO』の上映にうかがった。「スゴいなあ…なんだろうコレハ…」と食らった感じだった。その晩も、興奮冷めやまぬといった具合。

何か書こうと思いつつ、これはすぐには言葉にできそうにないなと、一旦そっとしておいて、今に至る。

『HIRUKO』は飯田将茂さん監督の映像作品。ドーム映像というのは、プラネタリウムなどを投影しているドーム状の空間での映像体験。映画なんかの、平面のスクリーンでの映像は“みる”って感じが強いけれど、ドーム映像は“体験する”ってのがしっくりくる(僕はドーム映像初体験でした)。

内容としては、わかりやすい起承転結は見当たらず、断片的な情景(といっても、どのシーンも5分以上はありそうなワンカットの映像)が連なる。その情景の中に人も出てきて、そのうちの主演として舞踏家の最上和子さんが踊る。

簡単に作品の流れを振り返ると(前提として、映像はまっくらやみで、人やモノだけが映っていて、宙に浮いているようになってる)。
シーン1。最初に水らしきの映像がある。
シーン2。魚が映る。顔から腹くらいまでの映像で、口をぱくぱくしながら、エラを動かす。時折、びちびちびちと暴れる。
シーン3。最上さんが映る。まわりに光が旋回する中央で、うずくまっている。魚のようにもみえなくない仮面をしていて、すこし動いて次のシーンへいく。
シーン4。坊主の男性の、顔のどアップになる。顔の動きを映しながら、後半に和太鼓が鳴る。
シーン5。人が代る代るやってくる。枝を持った男女が、ゆっくりと向かってきては、枝を捧げていく。
シーン6。最上さんが踊り、フィナーレ。

僕が認識している範囲だと、以上の6シーンで作品はできていた。言葉にすると、これおもしろいの…?ってなってしまうのだろうけど、えらく衝撃をうけてしまったのだった。

僕のうけた衝撃を言葉にしてみると。
シーン1。水?。いや、赤ちゃんがいるお腹の中のエコーをみてるような導入。
シーン2。キョーレツに呼吸を感じる。魚そこに映っているだけなのに、不気味な緊張感とともに、魚の呼吸と、自分の呼吸が意識にあがる。
シーン3。最上さんが映る(事前のポスターで衣装をみてるからそうとわかる)。おそらく、うずくまった様子を真上から撮っている。ほんの少しずつ動きながら、そこに微細な震えがともなっている様子が、衣装の色味や質感もあいまって、“心臓”が裸でそこにあるような感覚を覚える。“心臓”に顔と手足が生えてる。外科医の手術に出てきそうな心臓の類とは明らかに違うのだけれど、それに似た、だけど違う、生死の手触り。
シーン4。男性の顔に、緊張感と同時にユーモラスな気配もみる。こんなにどアップで巨大な、生きてる人の顔を鮮明にみること初めてで、引き込まれる。顔ってやつにもアミニズムがあるのかもしれないと思う。
シーン5。映像作品的な、流れみたいなものを一番感じたシーンかもと後から思う。次がラストの最上さんの踊りだったので、そこにむけて場を整えているような。
シーン6。シーン3の続きで、やっぱり“心臓”に、生と死が裸でそこにいるようにみえる。それが途中から、“心臓”みたいな形よりも、“断層”のようにみえてくる。現象の切断面というか。シーン3が丸まっていた身体だとしたら、シーン6は面としての身体。本当にわずかしか動かない身体と、そこにある震えと、それらを受け容れるべくできているような衣装の質感とによって、身体だったり、自然だったりを、スパッと凄まじい手際で捌いて、その断面が露わになってしまっているような。そしてその断面が揺れて空間ごと動くような。そんな体験をしてしまって、一人で「…すげえ…」と声が漏れていた。

そうして、作品が終了する。
この作品をみて、感動した人は誰もが覚えるであろう、“生死”/"自然”/“身体”の手触りみたいなモノが強烈に残る。

作品だけでも十分におもしろかったのだけれど、その後の、帰り道の時間が個人的にはまた、おもしろかった。

今回、約2年ぶりの東京だった。ご時世もあって、『HIRUKO』をみるだけの滞在予定だった。長野に帰る前にすこしだけ散歩をした。目的地もなくふらふら。

そこで目に飛び込んでくる光景がおかしい。
異常にニセモノにみえる。薄っぺらい。
東京の、似たような光景は、『HIRUKO』の前にもみていた。というか密度の違いはあれど、長野にだってよくある。

そんな見慣れたはずの光景に気持ち悪さがある。
別に都市文化の否定をしたいわけではない。ただ変にみえたという結果を書いている。

それは『HIRUKO』という作品の力なのか、あるいは作品を通して共有していた場の力なのか、たしかなことはわからない。ただ、あの時間を経てから触れた光景が変わったことはたしかだった。

そして同時に、この光景の中で生き抜くためには“自然”が必要なんだなってことを強烈に感じる。都市の中に“自然”を確保しないと、生きていけないのではないか。

都市は、東京を意味しない。どんな田舎だろうが、都市でない場所、都市文化に蹂躙されていない場所は今の日本にはほとんどないように思う。
そして自然も、山や森みたいなことを意味しない。東京にだって、空はある。風もある。
でもそれを“自然”として受け容れる、こちら側の器がなくなっているように感じる。内側の“自然”とでも言いたいものが、根こそぎなくなっているような。

都市文化に覆い尽くされる最中、“自然”として残されているのは“身体”だけなのかもしれない。

“身体”っていう、とっつきにくいフロンティア(=前衛)の手がかりに、舞踏はなるのだろう。自分が携わる瞑想もそういう類のモノでありたい。

以上、ドーム映像作品『HIRUKO』を通じての感想でした。こうして感想を書く追体験が、また興奮を呼び起こしてくれています。

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