立てる
20201124
日々の習慣にしてる書道。
先週から良寛というお坊さんの書の臨書をはじめた。
臨書は、誰かの作品をお手本として、まねていく。
真似を通して、文字の形やら、筆の運び、強さ、息のつき方なんかをまなんでいく。
それで良寛である。
書をはじめて1年たらず、僕は書のアレコレをほとんど知らない。
それもあって(というのは言い訳だけど)、良寛の書が、書の歴史でどう扱われてるかもわからない。
ただ、臨書をするにあたってステキな字の人だなあと、今月は良寛を選んだ。
筆で文字を書こうとすると力強さの方が目立つことが多い気がする。
それに対して良寛の書は細身でヒョロっとしてる風。
ボリュームという力強さはないように見える。だけど、しっかりスッとした線はある。そんな感じだろうか。
長年書をやってる友だち曰く「お肉がなくて骨と皮って感じなのになんでこう力強く書けるのかな、変態だなっていつも思う」。
それで、わからないながら書いたものを、先生に見てもらう。
「良寛の書は難しい道なんですが、最低限筆が立っていないとダメです。筆が寝た気の抜けた字だと一気に見れないものになります」みたいなことを教えてもらう。
「筆を立てる」、書道をしてるとよく聴く言葉な気がする。
筆が立っているのと、筆が寝ているのは何が違うんだろうと思い巡らす。
筆が立っていると、筆先が、もしくは筆先から紙に当たる。筆先から段々と筆の太い箇所が接触する。
それに対して、筆が寝ていると、筆の腹が紙に当たる。筆の腹が先導しながら線になる。
これらの何が違うかなあと考えると、“微細さ”ではないかと思い至る。
筆先が立っているときと筆が寝てるとき。同じ距離の線を書いても、線の節の数が変わってくる。
筆が立っていれば、筆先がほんの少し紙に当たったままに、ズズズっと、小さい接触を何度も繰り返しながら、線になる。
筆が寝ていると、筆先から全体がのペーっと紙に当たったまま、ニュル〜っと、大きな塊として動いて、線になる。
小さな塊か、大きな塊かで、節の数というか、関節の数が変わる。
では節の数が違うと何が違うのか。
なんとなく思うのは、節が多いほど、微細さを記録できるだろうなってこと。
線を書いてる間は息を吐く。
その一呼吸、一ストロークの中の体の状態や揺れを、より詳細に紙に留められることに、節の数が関わっているのではないか。
筆を寝かせて、のペーっと動かすことは、自身の体に横たわってるはずの微細さを、無かったこととして見えなくしてしまうのではないかと思う。
良寛の書は、字の形として、キレイってものではなさそう。それでも人を惹きつけるのはなにか。
良寛の体の状態、その微細さそのものが紙の上にあることな気がする。
だから、良寛の臨書は、目で形を追うことはちがうかもしれない。
自身の体の状態、書いているこの瞬間の体の揺れ、リズムこそを、紙に留めることを目指してみたい。
それは、今筆をもつ、自身そのもののあり方を尊重することにつながる気がする。
そして、筆を立てる。
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