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出家

20220131

出家ってなんだろうかとふと思う。

別に仏門に入って修行をするとか、そういったことを考えたいわけではない。

出家、文字通り、“家”を出るってのはどういうことか。

“家”という言葉に、人それぞれいろんな情景を描くのだろう。あったかい団欒の場やマイホームなどなど。

僕にとっても、植え付けられたイメージとして、そんなほのぼのとした印象もなくはない。

でも、それよりなにより、“家”=血生臭い鎖とかの方がしっくりくる。

親の都合で勝手に産み落とされ、知らぬ間に親の“当たり前”の血の海に沈められながら、アップアップしている。

それでもどうにか生き永らえるために、親とそしてその親とにつながっている鎖を手放さずにいた。その間に自他を傷つけながら流れた血で海はさらに染まる。

“家”なんて言葉を起点に約30年の生を素描するに、碌なものではない。

今読んでいる信田さよ子『アダルト・チルドレン:自己責任の罠を抜けだし、私の人生を取り戻す』は、親と子にまつわる非対称な暴力性について、専門家の知見から見事に描いてくれていたと思う。こういうことを専門家が書いてくれるのかと、読んでいて元気になった。

そしてこの本の副題、「自己責任の罠を抜けだし、私の人生を取り戻す」ってのは、“出家”と“作家”のことだなと思った。

みずからの生にまつわるあらゆる流れ、血の濁流から抜けでるために、“家”を出る。「自己責任の罠を抜けだす」。

そして、新たな生の流れのもとに「私の人生を取り戻す」。新しい“当たり前”としての、“家”づくり。

“家”から脱出し、“家”をつくる。

“建築”することの指南書のような気分で読んでいる。

いつのまにやら、僕も、自分の親と同様に、親になった。

身勝手に産み、多くの“当たり前”を娘に押しつけ続けている。どれだけ彼女がその瞬間楽しそうにしてくれていても、生殺与奪の権を握ったまま、親の“当たり前”で押さえつけている。

できる限りのベストは尽くしているけれど、親と子の間の暴力性ってやつは、その構造上大なり小なりついてまわるものだろうとも思う。

妻と娘と僕とで、新しく“家”をつくっていく。
いつの日か妻やら娘やらに恨まれる日が来るのかもしれない。

それはそれで仕方ないといってしまうのは無責任なのかもしれないけれど、腹を括って受け容れるほかない。

それよりなにより、幼い頃の自分が様子を見にきて、「それはないよ」と言われないような“家”ではありたいと思う。

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