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飽きと商いとビジネス

20220613

「飽きたらどうするんですか?」
「飽きるとか飽きないじゃないんですよ。やるんです。」

作業をしに入ったドトールコーヒーで、こんな会話が聴こえてくる。

どうやら仕事というか、働き方というかの相談をしているらしい。男性から女性へ。上司と部下って感じではない。

しみじみと、“商い”と“ビジネス”との違いに想いを馳せる。飽きてるか、飽きてないか。言葉の使い分けに、仕事ってことへのスタンスの違いが表れているような。そんな気がする。

“商い”はあきない。文字通り、飽きない、飽きていない仕事なのではないか。

自分がまだ飽きていない、いつか飽きるかもしれないことを自覚して仕事をしてる。そんな印象をもつ。

それに対して“ビジネス”はビジーネス。busy-ness。businessから派生したbusy/忙しさを、保つことが主眼になっている言葉なのではないか。

飽きてるとか飽きていないとかは二の次で、あくまで継続すること、利益を生みつづけることを優先する。

別にどちらが優れているとかではない。局面ごとで、それぞれをよしとする価値観がある。

それに、そもそもこんな比較は、言葉遊びの範疇をでない。科学的な検証もない。言葉の歴史や成立の過程への裏付けも何もない。ただただ、言葉の中にある音の響きについて、個人的な雑感を書いているにすぎない。

とは言いつつも、使う言葉が、意識に制限をかける、あるいは、無意識って領域をつくりあげるだろうことは想像できる。

どちらの言葉も仕事、利益を生み出すことを指す。そこは変わらない。ただ、その仕事に携わる当人たちのスタンスが異なる(のではないかと言葉を対比させている)。

生きていくのにお金はいる。何かしらの方法でお金を手にする。

どうせなら、“ビジネス”ではなく、“商い”をしていたいなと思う。みずからの飽きを自覚していたいと思う。

ずっと飽きない仕事を探そう、とかってわけではない。

むしろ、やりたいと思ってはじめたこと、好きだったはずのものが、そうではなくなってしまうことへの、丁寧さに触れようとしている。

“商い”から“ビジネス”に変わる瞬間。そのことに自覚的でありたい。あるいは無視しないでいたい。

自分の飽きを受け容れなくなった瞬間から“ビジネス”ははじまる。

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