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視線

20210531

先週の土曜日、久々にSNSに記録しつづける習慣を休んだ。ありがたいことに、瞑想稽古場mybに新規の方が多くみえた1週間で、人あたりというか、すこし疲れ気味だった。

僕は放っておくと、身体の調子やリズムを見て見ぬ振りして、頑張ってしまいがちっていう自覚がある。

妻に「Mr.メトロノーム」という異名を授けてもらえるくらいには、しつこいくらいに淡々と日々の一つ一つを積み重ねることに歓びを感じる。

ただ、それがどこかで行きすぎて、身体を置き去りにしたりする。歓びよりも義務感らしきが上回る。

そうやって疲れてしまうたびに、修行不足を痛感する。

それで、土曜日にも新しい方が見える予定でもあったから、ここは休んどくかと、ルーティンをキャンセルしてみた。

といっても、SNSに投稿しないだけで、やるってことに変わりはないのだけれど、やめてみた。

そうやって過ごした1日が、異様に手持ち無沙汰だった。張りがない。

書くことも、身体動かすとも、料理も、うまくピントが合わない感じとでもいうか。

基本的には、僕がSNSに投稿してることなんて、自分で自分を鼓舞するための、誰得なことでしかない。

ただそれでも、その姿というか姿勢、動き方の軌跡自体がどこかに響くこともあるかもねえくらいに思っていた。

だから誰かから反響があるとかは二の次で、まずは楽しむってことだけに注力していたつもりでいた。

でも、SNSの投稿をたった1日やめてみるだけで、誰かの視線があるとないとでは全然違うんだなと、今更ながらしみじみと実感した。

僕の日々の活動は、あくまで好きで勝手にやってることを、誰もが見ようと思えば見れる場所に、勝手に記録しているだけでしかない。

勝手にやってるだけ、それはそのつもりなのだけど、誰かに見られるっていうことへの意識が知らぬ間に働く。

他者の存在が紛れ込んでくるとでもいうか。

そんな他者との綱引き、緊張関係のおかげで、自分自分と思ってしまって凝り固まってしまうようなモノが、意図せぬ方向に転がっていってくれる。

ささやかでつたない他者ってモノへの認識の仕方ではあるけれど、それでもありがたい。

こういうことを実感させてもらえるだけでも、各々が独りでいながらにして独りじゃないことにうれしくなる。

一体何を書いてるんだろうかと我ながら不思議ですが、こういう身体のタイミングもあるということで、またよろしくお願いいたします。

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