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子在らしめる親

20211129

娘のお友達のママと、子育てについて雑談する。

「勉強しろっていうのもダメっていうしねえ」と聴いて、せやなあと考える。
“親”と“子”の関係について。

“親”が“子”に、ある方向性を強制してしまうことは、残念ながら常にある。

というか、その強制力のみをもって「“親”と“子”という関係」は成立する。“親”と“子”の成立の条件に強制力がある。

ここでの“親”と“子”は親子に限らない。力の関係がある一方向に決まっている他者間をさす。

強制力ゆえに、“親”が“子”に与えるすべてのものは、“暴力”なのだと思いつづけている。

“親”が用意する全ての環境は、押し付けである。社会的にポジティブだろうがネガティブだろうが、“子”の積極的な同意があろうがなかろうが、“親”の趣味趣向がほとんどすべてとして現れてしまう。

この世に生をうけることですら“子”にとってみれば、“親”の身勝手だ。

育った後、生んでくれてありがとうと思ったとしても、生誕というイベント自体は“親”からの余計なお世話以外のなにものでもない。

僕は娘に余計なお世話を日々つづている。そのことを忘れないよう努めて、娘といる。

余計なお世話だという自覚のもと、できるだけ“非暴力な愛”をもって娘と接したいと願っている。

“親”は“子”を愛している。だからこそ起きてしまう“暴力”が山のようにあるのだと思う。

愛ゆえに、自分ができもしていないことを、できもしていないからこそ、“子”に押しつける。

勉強を普段していない“親”が“子”に「勉強しなさい」と告げる。
自由を実践することなく、その自由につきまとう責任も知らない親が「あなたが決めなさい(私はあなたに自由を与えたわ、責任はあなたにあるの、あとは私は知らないから)」と告げる。

ライオンがみずからの狩りの方法を子に伝えるように、できる限り、背中をみせるか、並走できることで、娘との時間をすごしたい。

そして、押し付けの中でも、娘の琴線にふれて震えた瞬間を、そっと留めておきたい。

“子”とむきあうこと、子育てはそんな丁寧さに尽きるのではないか(まさに保育)。

言葉で示された意志とは別の、身体が発してる声を聴けずして、“親”と言えるのか。

とまあ、こんなことに必死ですと言葉にしたところで、娘にとってみればやはり余計なお世話でしかない。

それを重々承知の上で、娘とできるだけ丁寧に向き合っていたい。

“子”に在らしめてしまった“親”の責任として。

別に偉そうに書いているわけでもない。

自分が親との関係や、人間関係に悩みもがきつづけているからこその、みずからへの切なる願いである。

久々に、妻以外と子育てについて話をして、そんなことが繋がっていった。

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