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インプットとアウトプット

20200603

インプット/アウトプットっていう、簡便な言葉、分類に違和感がある。
その間が気になる。この言葉の解像度をあげるのは、大事なことにつながっているような気配を感じてる。

インプットのためのインプットではなく、アウトプットのためのインプットでもない。

インプット、それ自体の過程を味わうためのインプット。

見栄のためのインプットも、アウトプットしなきゃと焦りながらのインプットも、経験したつもりの僕としては、

過程にこそ重きをおくインプットが、結果的にインプットもアウトプットも、一番できる気がしている。

僕はそれを“味わう”って言葉であらわそうとしている。

スタートとゴール。その間を合理的に、最短距離で駆け抜けるのではなく(必要な場面は当然あるが)、道草。道中の右往左往をうけいれ噛み締めること。

 「奈良鹿天命味盡地」自分で決めた、my憲法の1番。

 「自分になら(=奈良)、自分にしか(=鹿)ない命を、今この立っている地で、味わい尽くす」みたいなイメージ。 荒川修作の養老天命反転地からとっている。
印象に残っている言葉として拝借している。

養老に行くことよりも、今立っているこの場の方が重要なのでは。

生→死の反転よりも、今この場の命を味わい尽くす方が重要なのでは。

という2点を考慮し、勝手に変更して、使わせてもらっている。

動物⇄社会という主体の行ったり来たりと、合理⇄非合理という行ったり来たり。

この組み合わせをどうにか考えてみたい。

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