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陰陽

20210726

妻の鍼灸院で開催する勉強会のレジュメをつくる。参加者の方たちと東洋医学のベースを共有しながら、それが各自の生活の中にどう現れるかを一緒に考えたりする。

テキストは妻がそろえて、僕が持ち帰れる形に整える。そんな流れはいつものことで、特別どうってことはない。

なのだけれど、今回妻がつくってきた内容に目を通しながら、おおっ...!となる。今までも定番のように書いてあったであろうことに目が留まる。

レジュメの冒頭に陰陽とは何かって説明がある。「異なる性質が対立したり協力しながらバランスをとっている」。

サラッと書いてある、不定形で複雑な均衡のあり方。一対一にモノゴトを対応させるような筋道では至れないバランス。

陰陽観ってのはこんなバランスで世界が成り立っていると見渡すことだろう。

それだけでも十分な訓練を要するだろうに、陰陽として生きること、そのバランスを体現することの困難さ。

いやいや世界はそうやってできてるんだから、身体ってモノもそうでしょ、ありのままでいいでしょと言ってのけることはたやすい。

でも残念ながらそうはいかない。環境か、教育か、情報かによって、かつては陰陽としてあったかもしれない身体は、はるか奥底に仕舞い込まれてる。

何が仕舞い込まれてるかは、各身体ごとで、多分違う。だから正解なんてのはない。正解なんてのがあるとしたら、各自の正解にたどりつくか、つくるかするしかない。

自己表現なんてのとはちがう、居た堪れないほどの固有性がある。確定的に扱うことを決して許さない生命の揺れ。

それが陰陽として在ることなのかなと、今回はじめて思う。

つい油断すると、正解/不正解と身の回りやみずからを断じて、凝り固まった、しょうもないテリトリー内に着地しようとしまう、我が身へ、自戒を込めて。

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