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元祖、わきまえない女!

『花芯』瀬戸内寂聴 著:講談社文庫

本書はタイトル作の「花芯」を含めて他四編の短編小説からなっている。
寂聴の膨大なキャリアのなかで、傑作『夏の終わり』以前に書かれたいわゆる初期の短編集。
「いろ」はまるで谷崎小説のような芸者と若者の悲哀もの、「ざくろ」は女の告白調小説で、「女子大生・曲愛玲」は戦時中の占領下の中国北京での話。占領するものとされるもの、デュラスのインドシナを思い出す。
「聖衣」愛人の子を身ごもった女の罪と罰、清濁併せ呑むかのような話。

でもやはり話のメインは「花芯」。当時、子宮という言葉が頻繁に使われたことで、「子宮作家」とレッテルを貼られ、文壇から干された問題作。
今読むと、なんで?と思わざるをえない。下品で通俗な悪趣味なエロ小説みたいなことをいわれたそうだが…。たぶん、こういうことを言ったのはたぶん男の批評家がほとんど(かりに女性がそれをいっていたとしたら、あくまでそれは男的な価値観のなかでしか物を言えないからか)だったと思う。きっと、男は、この小説が怖かったんではないだろうか。あまりに自由奔放に性愛に興じる女の存在を、否定したかったんじゃないのかな。そういう性の自由を謳歌できるのは男のみで女はだめだぞ的な。ファンタジーとしての女像を清らかなものとしてあって、子宮が求める、なんて表現に一時的に繊細な男はインポテンツに陥ったんではないのか。

物語の冒頭。「きみという女は、からだじゅうのホックが外れている感じだ」という一文がすべて表しているように思う。この体のホックなるものは、ようするに世間だ。世間、慣習とか、惰性、社会規範とか、そんなもの。ホックを外すとは、そんな規範から外れていくということだと思う。良妻賢母というイデオロギーから自由になる、ということの象徴がこの小説の行き着くところの娼婦性の獲得だったんじゃないのか。
いつもこの社会の規範を作ってきたのが男だったから、余計にありえないと憤慨する。昨年ある政治家が言ったように「わきまえていらしゃる女」が市民権を得るのだ。自由な女、園子の旦那の雨宮はその憤慨する男の典型だ。だって、園子ほどわきまえていない女はいないのだ。

とくに好きな場面は、園子が子供を身ごもった時、近所の主婦の井戸端会議で誰かの赤ん坊をあやしながら、園子に「かわいいでしょ」とお世辞の同意を求めた時、「いいえ」と言い放つところ。痛快だった。もちろんこんな物言いは世間的には糾弾される。頭のおかしな女だと思うのが「世間」。でも小説というものの存在意義が「人間の精神はどこまでも自由だ」ということの証明にあるのならば、このやりとりには可能性がある。
どう規範から外れて自由を得るのかが文学だとしたら、この花芯という小説は真っ当で正統的な文学だと言わざるを得ないだろう。

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