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喪失感

ここ数日間多くの日本人がそうであるように、私も心が重く沈み喪失感を味わっている。安部さんを特別応援していたわけではまったくなかった。けれども、亡くなったという事実が重くのしかかり、できるなら時間を逆戻しにして、容疑者が2発目を発砲する前に取り押さえられた映像が流れてくるのではないかという想像をしたりする。夫人に関しても以前はかなり否定的な見方をしていた。しかしそういう感情は置いといて、突然、夫を亡くした悲しみはいくばかりのものであろうかと想像だにできないでいる。葬儀での挨拶の内容がニュースで発表されていたが、それから推察するに、元総理は本当に優しい人で常に庇ってくれていたのだろう。その大きな後ろ盾を失った今、「将来が不安」というのを率直に口にするのだから、相当取り乱しているのがわかる。まだ現実を受け止められていない状況の挨拶だったのではないだろうか。

ここで、どうして私はこんなにも深く沈んでしまったのか、という疑問がある。それは人が普通のこととして生きていることが、急に断たれるというのを目の当たりにし、動揺しているのか。命の危なさ、それと同時に銃社会でない日本で手製の銃が簡単に作れてしまい、安全神話が崩されたことへの憤りなのか。

ニュースを見ると安部元首相は多くのことをやり遂げ、またやり残した政治家であったらしい。67歳という年齢を鑑みれば、ご本人はここからが勝負と思っていたのかもしれない。選挙後の改憲がどうなるのか、安部派がこれからどうなるのか、岸田現首相のかじ取りはどうなるのか、などなど安部さんがいると普通に運んでいた出来事が以前とは全く様相を異にして起こりうるのだ。そんなに重鎮だったのか。

今は混沌をしており、私の喪失感の正体もわからないままである。もう少ししたらもっと客観的に考えることができるのかもしれない。

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