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同じ言葉、されどすれ違い

多くの新社会人は、まず同期と共に苦楽を共にするのだろう。
かくいう私も、その1人である。
指折り数えるほどの同期と共に業務にあたるなかでどうにもままならないのは、認識のすれ違いだ。
同じ言葉を使っていて、お互いに合意を得たことのはずなのに、気がつくとなんだか違っている。うまく、進まない。
そんなことにイライラしてしまう日も多かった。

同じ言葉を使っていてもこんなにも苦労するのだから、違う言葉ならさらにすれ違いも多いだろうなと思う。このすれ違いが国の偉い人と偉い人の間で起こったら、戦争とかも起こったりするんだろう。仲介者、第三の目、客観的な目というものはとてつもなく大切なんだなと思う。
最近、ビジネストランスレーターをやっている人に会って話をした。分野の異なる人々が集まって仕事をするうえで大きな役割を果たすが、稼げない。ボランティアだと本人は笑っていた。大事な仕事が稼げないからと消えていく。どうすればいいんだろうなぁと思うが、社会人1年生にはどうにも難しい…。

でも、そんなことは言い訳にせず、私も頑張らねばならないのだ。


大事なのは言葉の共有ではなく、イメージの共有なのではと思う。

例えば、複数人でトマトの絵を描くことになったとする。「トマトの絵を描きましょう」ということにすべての人が合意しても、その中にはミニトマトを描く人、大玉トマトを描く人、黄色いトマトを描く人、トマトの実のみを描く人、トマトという植物の全体像を描く人…様々で、いっせーのでそれを見せた時、あれっ、みんな同じものを描こうとしていたはずなのに…となってしまう。

でも、一つトマトの画像を選び、「こんな感じのトマトの絵を描きましょう」と見せると、描き手全員のイメージがそのお手本の画像で統一される。それぞれで絵を描いても最終的にみんな同じような絵になるというわけだ。

まぁ、この例はとても簡単で…そう上手くはいかない場面もたくさんあるだろう。
でも、こういった一手間で格段に仕事がしやすくなることも、もちろんあると思う。
社会人としてステップアップするために、そういうことに気づいて実践出来るようになりたい。


最近、米津玄師の「さよーならまたいつか!」をよく聴いている。

1ヶ月前の曲だ。YouTubeのチャンネルを登録しているのに、最近になるまで気づいていなかった。
それだけ、目まぐるしい生活をしていたんだなぁと思う。
2ヶ月経って、少し心の余裕が出来たから気づけたんだろう。
なれば、受け身で学ぶだけではなく、自ら仕事をやりやすくするために考え行動していかないとならないなと感じる。
ただ働くのではなく、どう働くのかを考えなければならないのだと思う。

良い仕事は、良いコミュニケーションから…!

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