うずき

「うずき(疼き)」 

 僕が読んでいる本の大半は西洋のものであるが、そういった体験の原点がどこにあったのかということを振り返ってみると、キルケゴールが書いた『死に至る病』に辿りつく。正確にはこの書物と出会う以前にも西洋の書物に出会っていたのかもしれないけれど、もしそうだとしてそれが何という書物だったのかは全く思い出せない。
 「死に至る病」という表題に出会ったのは中学生の頃、巷で流行っていた『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメを通してだった。そのアニメの何話目かの表題が、このキルケゴールの書物の表題をそのまま借用したものだった。しかしこれもまた、果たしてその回の内容がどのようなものであったのかはまるで思い出せない。ただ僕の記憶に「死に至る病」という語感だけが印象づけられていた。
 そしてこれは高校生になってからのことだが、何かの機会にこの『死に至る病』とは、何か具体的な治療困難な病状を指している言葉ではないことを知る。更に、「死に至る病、それは絶望である」というような内容が冒頭で記されていることを知る。「死に至る病が『絶望』である」ということ。当時の僕にはこのテーゼがとても格好良く感じられた。そして同時に「絶望が『死に至る病』である」ということがどういうことなのか。どういった論理がそこでは語られているのかが気になり、岩波文庫から発刊されている訳書を購入して読み始めた。
 読み始めた時のことはよく覚えている。そこに何が書かれているのか「全く」わからなかったのだ。内容が全くわからないまま読み進めていくことに対するストレスに耐えられなくなり、程なくして僕はこの書物を読むことを諦めた。そしてしばらくの間、この本は僕の書棚の肥やしとなるのである。
 今ではこの書物が西洋哲学の流れを汲む一冊であるということも知っているし、あの頃から考えると西洋哲学に関する知識も増えてきたように思えるので、この書物との関係もあの頃と比べると随分違ったものになっているということは言うまでもない。あの頃西洋哲学の知識を持っていなかった僕がこの書物を読むということは、全く知らない言語で書かれた書物を原語で読んでいるというようなことと等しかっただろう。西洋哲学を読むための言語を知らなかった僕が、そこに書かれている内容に対してこれっぽっちも近づくことが出来なかったのは当然のことである。
 僕は読書を愛好している人間だと自負しているが、数年前から西洋の作品を読む際は出来るだけ原語で読むということに挑戦している。それに至った要因はいくつか挙げることが出来るが、一番大きな要因は日本語に訳された文章を読む際の、語感に対する違和感にあると思われる。それが翻って、作者が元々使っていた言語の語感で読みたいと思うようになった。僕は大学を外国語学科を卒業した者でもなければ、ヨーロッパに足を踏み入れたことすらない人間なので当然その地域で話されている言語に対する恐れの意識はあったけれども、その恐れよりも前述したことへの意志の方が強かった。
 研究者が書物に対して行うような精読には程遠いけれど、当時は急峻な岩肌を身一つで取り付きながら昇っていくかに思えたその読書も今ではそれらの言葉から感銘を受けることも出来るし、こういった場所に書き記す自分の考えなどは既にそういった時期の読書からの影響も色濃い。
そのように自分が読書を通して触れる言語が多言語化されていく中で、以前には無かったような感覚を抱くようになった言語がある。それは日本語だ。

先日、縁があって川端康成のエッセイ集に出会った。日本語以外の言語で書かれた書物にキリをつけたところだったので気分転換程度にその川端康成のエッセイ集を開いたのだが、その時抱いた感覚は自分の読書体験の中でも貴重な体験だった。
当然日本語なので内容理解の正確さは多言語のそれとは比べものにならないことは言うまでもない。そして「日本語を読む」ということ自体にどこか清々しさというか、同志と再開した懐かしさみたいな感覚もあったように思う。しかしこの「清々しさ」も「懐かしさ」も僕がその時抱いた感覚に対する的を射た表現だと思えないのだ。これが日本人の遺伝子に息づいているという「侘び」なのだろうか「寂び」なのだろうか。それとも「もののあはれ」か。禅か。これらのどの言葉を以てしても的を射たように思えない。この僕が抱えている「言語にできない日本語への感覚」は一体何なのだろうか。

「言葉に出来る」とはどういうことか。それは言葉にしようと思った事柄に対応する言葉を「知っている」ということである。僕たちは(少なくとも僕は)言葉を知らないことに対して「言葉に出来ない」。
僕は先ほど、川端康成の文章をから得た感覚をうまく表現できないと語ったが、やはり僕はそれを表現する言葉を持っていないのだろうか。
僕がどのような経験を経て現在用いている言語を獲得したのかということに思いを馳せてみると、その原点が、僕が育ってきた家庭にあるということは疑い得ない。僕はこの世に生まれ落ちた瞬間から親の、そして兄姉の放つ言葉と接しながら育ってきた。そしてその経験を積み重ねていく内に彼らが発している言葉が何を指しているのかを一致させていった。そして僕も家族が使うように言葉を使うようになった。更に自分が生活する環境が拡張されていくにつれて、自分が持っている言語観とは異なる言語観とも出会い、その度に自分の言語も拡張されていった。(付言すれば、自分が持っている言語観が崩されるような言語観との出会いを通して自分の言語観が再構築されていく楽しみが、僕の読書に対する「楽しみ」の一つである。)一方ここでもう少し考えてみたいのは、そのような経験を経て言語を獲得するまでには自分の中でどのようなことが起こっていたのか、ということである。
僕は生まれた瞬間から家族の放つ言葉を聞きながら言語を獲得したことを先ほど述べたが、そのような状態へ移行するまでには家族の放つ言葉を単なる「音」として聞いていた時期があるはずである。それを踏まえて考え直すと、僕が言語を獲得するに至るまでには
ⅰ.家族たちが放つ言葉を単に「音」として聞き取っていた
ⅱ.そのような「音」に特定の対応があるということに気づいた
ⅲ.音と特定の対応=意味を拡張させていく
という3つのフェーズを経ていることに気づかされる。
 ではこの一つ目のフェーズについてだが、この「音と私の関係」はいつから始まったのかともう一度問い直してみれば、この世に生み落とされた瞬間からなどではなく、僕が胎内にいた頃、僕が微少な生命体だった頃、聴覚器官と脳の機能がかろうじて機能しだした頃から既に始まっていたと思えなくもない。もし、聴覚器官から伝達された振動→刺激が僕に何らかの影響を与えているということが本当ならば、そして、そのような痕跡が蓄積されていくことによって今の私があるとすれば、音と私の関係はこの頃から始まっていたし、広義に捉えるならば私の言語体験はこのころから始まっていたのだ。
 繰り返しになるが、私は家族が話す日本語を通して言語を獲得した。しかしその一方で、その言葉の意味を知る遙か前から家族が話す日本語を「音」として聞いていた。そしてその語感は間違いなく僕の脳に届いていただろうし、その刺激による痕跡は今も私の脳には残っている。そして時折、その頃の痕跡が言語化されないまま「うずく(疼く)」のではないだろうか。
 僕が川端康成の文章を読んだ時、そしてそこに書かれている言葉を疑似音声化しながら感じた、言葉に出来ない感覚もこの「うずき」が原因なのではないだろうか。元々言葉に出来なかったわけだからこの結論に正当性を求めてみても、今の僕には更なる解答はできない。もしかすると、これから先自分に更なる言語の拡張が生じたとすれば僕はこの感覚をまた違った言葉で表しているのかもしれない。いずれにせよ、今の僕にはこの感覚を「うずき」としか表現できないのでこの表現を使いながら文章を続けるが、僕は今、この「うずき」を肯定的に捉えている。それは英語であれ仏語であれ独語であれ、日本語以外の言語によってこの「うずき」を感じたことは無いからだ。逆言すれば、それらの言語で私と同じような「うずき」を感じる人は、私のように日本語からこの「うずき」を感じることは無いと推測する。自分が自分である理由を問えば問うほどその脆弱性を目の当たりにせざるを得ないが、この「うずき」は自分のそのような捉え難いアイデンティティに強く関連しているのではないだろうか。そしてこの観点に於いて「私は日本人である」と言わざるを得ない。日本に住んでいるからでも、日本に生まれたからでもない。ましてや日本語が話せるからでもない。『私は、日本語に「うずく」。よって私は日本人である』のだ。
 しかしどのような日本語に対してもこの「うずき」が生じるかというとそうではないということも記しておかなければならない。しかし日本語にも様々あるとして、それらにどのような差異があり、その差異が原因とどのように繋がっているのかについては未だ分析が不十分なので、ここで詳述することはできない。ただ、そのことに関してヒントになり得るように思う一節だけを川端康成の中から引用しておくことにする。

 明治以降に漢字をつなぎ合わせて出来た新造語、これらの多くに私たちは不幸な支配を受けている。私は漢語漢字をなるべく避けるために、作品の文章に苦しみ、多くの美観を失うという犠牲も払って来たが、述語とものの名称からは逃れきれない。また、あまり古風な文体、異風な文体を常に用いるわけにもゆかない。(川端康成『私の考え』より)


 最後に、この文章を書くきっかけになった川端康成との再会とほぼ時を同じくして出会った日本人作家を引用してこの文章を閉じようと思う。江藤淳という戦後日本を代表する評論家である。僕は彼の書物をこれまで一冊も読んだことは無かったが、偶然この書物に接する機会を得た。そして彼の文章もまた、僕をうずかせたのだ。彼は自分の死期を悟った時、自分の今までの人生と終わりに向かおうとする人生を比較する目的で、自身の幼年時代の記憶を辿り(結果的に絶筆となった『幼年時代』)、遺された母の手紙から自分の幼年時代を振り返ろうとする「初節句」の段でこう書き記す。

 敦夫(作者自身のこと)は、この頃から「母乳の外に一日九十瓦の牛乳」を与えられるようになり、そのおかげで「便秘しがち」だったのが解消したらしい。また「この頃は大変愛敬よくなって参りまして、顔をみましては笑ひお話をいたすこともございます」
中略
このとき私は、どんな「お話」を母にしたのだったろう。自分が母の顔を見分けていかに満足しており、この世にも稀な「幸せ者」だと感じていることを、音節だけがあって意味の定まらない言葉(?)で、懸命に表現していたのだろうか。
 一方、母といえば、その「お話」の意味するところを、言うまでもなく十二分に理解していたに違いない。それはもとより禁止もなければ、検閲も存在しない世界である。無論私は、この頃のことを何一つ覚えてはいない。しかし、外の乳児たち同様に、自分もかつてはそういう世界が確実に在ったのは、まぎれもない事実なのである。(江藤淳『幼年時代』より)

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