マッシュポテトおじさん
日曜日の昼下がり、僕は前々から行きたいと思っていた、話題の立ち食いステーキ屋に入った。昼食時は過ぎているにもかかわらず店内は混んでいて、人気の高さが伺えた。
席に案内されて店のシステムを教えてもらったところ、厨房の入口に設置された専用カウンターで自分が食べたい量の肉をグラムで注文するとのことだ。
サーロインステーキを200グラム頼んだ。まだ若いシェフは冷蔵庫から肉をどんと出し目の前で切って見せた。切り取った肉を計りに乗せると、223グラムだった。
「ちょっと多いですが、これでよろしいですか」と彼は愛想のよい笑顔を僕に向けた。多い分には問題ないので僕ははいと答えた。
「焼き方はどうされますか?うちはレアがおすすめですが」と言われたが、レアはちょっと苦手なので、ミディアムで頼んだ。
席に戻ると、5分もしないうちに鉄板の上でジュージュー音を立てるステーキが出てきた。噂には聞いていたが本当に早い。
ステーキの上にはガーリックチップとガーリックバター、付け合せはコーンのみ。サラダもライスも頼まなかったので、ひたすら肉を楽しむことができる。
ステーキソースがあったが、甘味が強いので、僕は塩だけをさっと振って、肉にナイフを入れた。表面はカリッとしているが中は柔らかい。肉汁が、ナイフの先端から溢れ出した。切り取った肉を口に運ぶ。口中に肉の味が広がる。なるほど、これはいい肉だ。
ステーキを堪能していると、店の入口が開き新しいお客さんが入ってきた。本当に繁盛している。入ってきたのは頭の禿げた小柄なおじさんだった。彫りの深い顔立ちで口ひげを生やしており、肌が白く、どことなくイタリア人のような雰囲気を漂わせている。おじさんは左手に銀のボウルを持ち、右手に木ベラを持って、ボウルの中の何かをしきりに潰しながら店内に入ってきた。
僕は何を潰しているのか確かめるために彼を凝視した。ふと目があった。おじさんは白い歯を見せて笑い、手元の作業を継続しながら、僕の方へ近づいてきた。
「やあ、どうだい、ここのステーキは美味いかい?」と彼は尋ねてきた。
僕が「はい、美味しいです。とてもいい肉ですね」と答えると、おじさんは満足そうに頷いた。
「そう。ここのステーキは美味いんだ。だが、何かが足りないとは思わないかい?」
「え、足りないものですか?うーん、なんでしょう?」
「ぶー、時間切れだ。正解はね……これさ」と言うと、おじさんはボウルの中で潰していたものの一部を木ベラですくい、僕の鉄板のすみにのせた。
「あ、僕のステーキに、ちょっと……」と僕は文句を言おうとしたが、のせられたものはマッシュポテトだった。芋が好きな僕は、実のところ欲しいと思っていた。
「これで完璧だ。さあ、食事の続きを楽しみなよ、セニョール」と言うとおじさんはウィンクをして僕のもとを離れた。そして、別のお客さんのところへ行き「やあ、ステーキは美味いかい?」と同じように声をかけていた。
そのとき、先ほど僕の肉を切って焼いてくれたシェフがおじさんの存在に気づいた。たくさんの客のために肉を切り、焼くのが忙しかったのだろう。
おじさんを見た瞬間、あんなに愛想のよかった彼の顔は、みるみる険しくなった。
「このジジイ!また来やがったな!」
もはや好青年ぶりは影も形もなかった。おじさんに向かって乱暴な言葉をぶつけたかと思うと、彼は肉切り包丁を振り上げ厨房から飛び出してきた。
おじさんはそれを見るとボウルを抱え、脱兎のごとく店から逃げ出した。
「くそ、いつもいつも………」とシェフは悔しそうにつぶやいたが、そこで我に返ったらしい。あたりを見回して、顔を真っ赤にした。
「も、申し訳ありません。不快な思いをさせてしまって………」シェフは周りの客にぺこぺこと頭を下げて謝罪した。
「あの、さっきの人は何者ですか」
すごすごと厨房へ戻ろうとする彼を呼び止めて、僕は尋ねた。
「はあ。あれは『マッシュポテトおじさん』です」
「マッシュポテトおじさん」
「はい。最初は普通にお客様として来てくれました。3ヶ月ほど前のことです。そのときは普通にステーキを注文されて、一口食べるなり、シェフを呼んでくれ、というのです。私が行きますと、君このステーキの焼き加減は絶妙だよ。素晴らしいと褒めてくれました。もちろん嬉しかったです。
でも、そのあと彼は、しかしこのステーキには足りないものがある。何かわかるかいと聞いてきました。私がなんでしょう?と尋ね返すと、ポテトだよと彼は答えました。ステーキの付け合せにはマッシュポテトが必要じゃないかい、と言うのです。
でもうちではマッシュポテトは出していないんですと言うと、そうか、仕方ないね、とそのときは納得した様子でした。
それが、数日経って再び来店した彼は、今日と同じようにボウルを持って、ポテトを潰しながら入ってきました。
私が持ち込みは困りますと言うと、彼は、いいじゃないか、私はこれがないとどうも肉を食べた気にならないんだよと、穏やかにではありますが、決して聞き入れてくれそうもない雰囲気を醸し出しながら言いました。
仕方なく店長に相談したところ、万が一食中毒になってもうちでは一切責任を負わないという条件で許可するとのことでした。おじさんにそれを伝えると、彼は問題ないと言って、鉄板にマッシュポテトをのせ美味しそうに平らげました。
1か月ほど前のことです。おじさんがいつものように自前のマッシュポテトをのせてステーキを食べていると、それを見た他のお客様が、美味しそうですねと彼に話しかけました。おじさんは気前よくマッシュポテトをそのお客さんに分けてあげていました。
それがきっかけか、自分ひとりでマッシュポテトを楽しむだけでなく、他の人に分けることに目覚めてしまったらしいのです。いつしか彼は自分でステーキを注文することすらせず、他のお客様へマッシュポテトを配るためだけにうちへ来るようになりました。
さすがにそれは許すわけにはいきません。お引取りを願うと彼はそのときどきは素直に帰るのです。でも何度も何度もやってきては、お客様にマッシュポテトを勧めます。
あまりしつこいもので、私も彼を見かけるたびに、先ほどのように激昂してしまうようになりました。本当にお見苦しいところを………」
とシェフは再び頭を下げた。
「いえ、気にしないでください。それにしても厄介ですね。おじさんは善意でやっているのでしょう?」
「はい。100%善意です。しかも、実害もないのです。お客様はみんなおじさんを受け入れます。むしろ、おじさんのマッシュポテトを食べたお客様は、必ずリピーターとして、また店に来てくれます。私も彼のマッシュポテトを食べてみました。認めたくないのですが、確かにうちのステーキの美味しさをいっそう引き立ててくれるのです」
「どれどれ」と僕はマッシュポテトを口に含み、それからステーキをもう一切れ口に入れた。芋のまろやかさが、わずかに残る肉の脂っこさを完全に消し、絶妙にうま味だけをそこに残している。さっきより数倍美味しい。
「なるほど。これは確かに………」
「そうなんです。美味しいんですよ………」とシェフは唇を噛み締めた。
その表情から読み取れるのは、単なる悔しさや困惑、いらつきではなかった。
おじさんを見た時の、シェフのあの激昂ぶりは異常だった。だが、それに反して「マッシュポテトおじさん」というネーミングは少なからず親しみを抱いていなければ、つけられないだろう。
彼の胸中には、おじさんに対する愛憎の入り混じった、複雑な感情がうずを巻いていると想像できる。
思い返せば、店を飛び出す寸前のマッシュポテトおじさんの顔は、いたずらがバレたときの少年のような、混じり気のない無邪気な笑顔であった。
(了)
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