つくば稽古に向けて 「皮膚も凄い」

私の伝えたい事は「身体感覚という世界の存在」です。
ただ、それが存在していたとしても、がっかりする事であれば幸せにはなれません。
しかし、大丈夫、私が伝えている世界はいつも、楽しく、凄さを実感できるものです。そんな世界を「誰もが持っている」、それなのに、皆、それを忘れてしまっています。

ただ、それは仕方がない事かもしれない、それはわかります。
私だって、「現代」という便利な時代に生れ、その恩恵をたっぷりと受け生きてきました。突然、江戸時代に送られたとしたら、1週間も持たない自信があります(笑)。

たまたま私は父親が道場を持っていました。選択する事なく、いつの間にか、武道の道へと入りました。
武道の世界にはこの世の便利な道具や仕組みが使えません。そこで自分の物足らなさを自覚し、溜めていきました。年齢的に大人になった時にはすっかり、自己肯定感を無くしていました

そのマイナスな思考を身体感覚の世界は全く気にする事なく、自分の中の凄さを見せてくれたのです。

あれが出来ない、これも出来ない、いつも、何度も心はへこみます。
しかし、そんな心の揺れがあっても、身体はいつも、私のそばにありました。そこにとてつもない身体感覚が広がっていたにも関わらず、それを見なかったのです。

身体感覚という世界を知らずにいたら・・・と、時々考えます。
でもおそらく、それでも、淡々と生きていたと思うのです。この世は身体的には楽になりました。機会があり、サービスが増え、ネットの世界が広がったからです。楽しい事もたくさんあります。しかし、それらは「頭」からみた世界。飽きるのも早いです。
飽きてしまった時にも、苦しさを経験する事なく、過ごせば、それを不幸とも思わないはず。なんだかよくわからないけれども、毎日を過ごす。そんな生き方になっていたのではないか、と思います。自己肯定感が低いんですから(笑)。

しかし、今、身体感覚の世界を見る事によって、毎日を楽しく、刺激的に過ごす事が出来ています。若い頃は他人と比べて、よく憧れていました。見聞きする「凄い事」を私はできない、とへこんでいました。
それが歳を重ねるにつれ、他人の行う凄い事も、気にならなくなってきました。理由は簡単。今、見ている私の身体感覚の世界をもっともっと見てみたい、と思うから。周りを見る暇がなくなりました

私が驚き、楽しんでいる世界を誰もが喜ぶとは限らないでしょう。ただ、そんな世界が「ある」という事ぐらいは知っていてもいいはず。
身体には層があります。内臓、骨、肉、肌、呼吸や運命も層です。
それらのどこに興味を持つかは人それぞれ、ただ、歳を重ねて老いていくと、昔は気にもならなかった事、むしろ、コンプレックスだった事にも興味が出てきます。
とりあえずはその存在ぐらいは体験しておくのは必要だと思います。

皮膚は他人

今日は「皮膚」のお話。
皮膚を一言で言えば、「他人」です。
内臓や骨、筋肉は「私感」が強いです。もちろん、疲れすぎて息が上がったり、筋肉が痙攣したりはしますが、それは理由があってコントロールが出来ないもの。
しかし、皮膚はいつも、私のいう事を聞かず、ただ、私を包んでいるだけです。「他人感」がとても強い身体なのです。

外の世界と接しているのが「皮膚」です。
寒ければ縮み、暑ければ汗を出します。常に外とコミュニケーションを取っているわけです。内側からその皮膚を操ろうとすると大変。息を止め、ぎゅっと力を入れれば多少赤みを出せるかもしれません。外から叩いて赤くする方がはるかに簡単です。

皮膚は他人
ちょっと乱暴ですがそう考えてみれば心軽くなる事がたくさんあります。
自分では操りにくいのですが、逆に言えば、敵として現れる「相手の皮膚」は相手よりも、私の方の気持ちをよく聞くものとなります。

例えば相手を掴み、引き崩す時。
骨や筋肉が強ければ、力任せに引けばそれで相手は力負けし崩れるかもしれません。しかし、その時、相手は「負けた」と心を折ってしまいます。そして相手との関係は敵対したまま。その場は勝てたとしても、恨みを買うかもしれません。私はそれが嫌なのです。強い武器や鍛えた筋肉で勝ったとしても、その後が心配だからこそ、精妙な身体感覚を磨き、それで相手との関係を作りたいのです。

力任せではなく、皮膚をじっと見る

相手の皮膚は私のもの。それがわかれば、力みが減ります。
腕を掴み、引く。その時、ぎゅぅ~と力を入れればケンカが始まります。しかし、この時、「皮膚だけを」意識し触れ、「摩擦力」を気にしながらひっぱってみます。するとどうでしょう。相手はこちらの気配を察知できずに、簡単に崩れてしまいます。

これ、「髪の毛」を例にすればわかりますよね。
髪の毛を掴み、引く。どれだけ力持ちでも、その引かれた髪についつい、連れていかれます。あとは、引きすぎて髪を切らないようにするだけ。同じことを皮膚に対して行うのです。

崩れを経験し、応用する

ただ、直接的にこの引き崩す技を求めている人は多くありません。これは「実験」です。もちろん、技としても使えますが、技として使おう、とすると、技止まりになり、日常生活に役立てる事が出来なくなります。それはもったいなさすぎます!

相手を動かすのに力はいらない、それをこの実験で学ぶ事が出来ます。
もちろん、普段の生活は「言葉」が主役。肉体的力は要りません。しかし、相手が頑として動かない時、ついつい声を荒げたりしていませんか?心むしゃくしゃして気分をわるくしていませんか?
これは筋肉的心の力を使っているからです。

相手をじっと観察をすれば、相手の中にも「私のもの」が見えてきます。そう、皮膚です。
相手に好かれ、身も心もあなたのもの、となっているならお願いも簡単でしょう。しかし、そんな関係はなかなか作れません。だからこそ、報酬としてお金を渡します。
また、ありがとう、という言葉も有効ですね。相手の心に先にあたえてしまえば、相手はこちらの思う方へと動いてくれるかもしれません。

しかし、まだまだ方法があるのです。相手の輪郭だけをみて、その輪郭を作る皮膚だけをずらし、動かすように接すれば、相手はいつの間にかちょっとずつ、動きを作り出す事になります。
それが「出来る」と思うための実験が先の稽古になります。

やはり、術理を説明しようとすると膨大な言葉が必要になります。
これはちょっと皮膚だけを 引かれれば経験できる事。普通に筋力で引かれた場合と、皮膚の摩擦力を気にして引いた場合、何度も繰り返し、比較をすれば、必ずそこに違いが判ります
自分が持っている新しい力をまずは「知る事」。その後、その力を伸ばしてもいいし、使わなくてもいいのです。自分の得意な事、やりたい事があればそれを選択する自由があります。ただ、知っていればいつか役に立つはず。

こうして言葉にしておけば、当日、これをし忘れる事がないはず(笑)。
多分大丈夫、きっと大丈夫、もし忘れていたら教えてください。
では、また。

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