現代の日本に暮らしていておかしいと思うこと

  • 炎上という現象が社会正義の皮を被っていること
    → 罪人に石を投げて殺したり、残酷な処刑を公開の場でおこなうような風習は数百年前からありました。古代ローマのコロシアムでは罪人を猛獣に襲わせる処刑がおこなわれ人々はそれを娯楽としてワクワクしながら見に来ていたとのことです。

    橘玲さんなどの考え方からすると 「悪いことをした人を罰することを快感に感じるのはヒトの遺伝子がそのように設計されているから」 です。
    単体では生きていけず社会的な群れをつくって生活するヒトという動物にとって、社会集団に害を与える分子を排除することは、食べられない食べ物を不快に感じてぺっと吐き出すくらいに重要なことです。お米を美味しいと感じ土をまずいと感じるのと同じようなしくみで、私たちの脳は悪の糾弾・追放を心地いいと感じ、そうした悪が身近にいることを不快に感じる。

    だとすれば先進国がやるべきことはそうしたヒトの動物的欲望を法律などのかたちで人為的に抑えてコントロールすることであって、炎上の勢いにまかせて徹底的に叩くことで秩序を維持しようとするのはまったくリベラル (進歩的・革新的) ではなくむしろ原始時代のような感情的・本能的な社会への逆戻りです。

  • SNSと民意をイコールだと思う風潮
    → Xなど多くのSNSではひとり複数アカウントが認められていて何十アカウントでもつくることができるし、公式に認められていなくてもメールアドレスや電話番号を複数もっていれば実際にはなんの問題もなくつくれます。選挙でいったらひとり複数票投票できるようなしくみです。そんなプラットフォーム上でのいいね数やフォロワー数を 「民意のあらわれ」 のようにダイレクトに受け取るのは危険すぎます。

    たとえ複数アカウント問題がなくなったとしても同様です。投稿数やアクティブ率には人によって差があり、フルタイムで仕事をしている人のトレンド寄与率が低いのに対して、一日中タイムラインに張り付いていいねやらRTやらポストやらをできる人はそれだけ多くトレンドの形成に影響力を持っています。選挙でいえば、暇人が一般人の何倍もの投票権をもってるようなものです。

    SNSを全否定したいわけじゃありません。いままで声をあげられなかった人や、声をあげても見向きもされなかった人が、影響力をもてるようになるのはいいことだと思います。TVや新聞しか大衆に訴える手段がなかった時代には、不正がもみ消されるようなことは多々あったでしょうし、それに対して個人ができることなんてほとんどなかったでしょうから。

    とはいえ 「被害者の声」 がいつも正しいわけではありません。当たり前です。判官贔屓という言葉があるように私たちは弱いもの・負けている側を贔屓しがちです。特に自分自身が弱者側だと自己認識している人は、成功者や強者に感情移入するのはむずかしく、被害を受けたと訴える側につよく感情移入してしまいがちです。

    でもそういう心のはたらき事態がヒトの持つ欠陥で、「弱者」 を名乗れば誰でも味方を増やすことができる。つまり 「弱者」 というポジションを取ることがある種の強さになるという逆転現象が現代では起こっていると考えています。

    その弱者ポジション取り合戦で負けた側 (強者というレッテルを貼られた側) こそが本来の意味での弱者かもしれません。それを正確に判断するには長い年月や調査が必要で裁判所などを通じてやっていくしかありません。SNS上で数日眺めただけで判断できる事柄なんてほとんどありません。そんなものは与太話の種にはなっても社会を動かす基軸にすべきではありません。

  • 政治家の不正や社会問題が炎上だけで終わること
    → SNSで追求することは問題提起のきっかけとして大きな意味があると思いますが、それだけで "悪が罰された" という気になってすっきりしていないでしょうか。みんなでワーっと悪人を叩いて、それで正義を果たした気になってサーっと去っていく。

    そういう秩序の維持のあり方は何度もいうように原始時代のやり方で、現代の法治国家ではその代わりに 「民意を法律として確立 (立法) した上で、その法にもとづいて強制力をもつ機関 (警察や検察=行政) が悪を捕らえて、最後にその判断が間違っていないかちゃんと法律に沿っているかを裁判所 (司法) がチェックする」 というやり方をとっているはずです。

    感覚的にいえば、悪いやつを徹底的に叩けば、本人はもう悪いことをしたくなくなるだろうし、それを見た周りの人たちもその行為をしたがらなくなって、秩序や平和が維持されるようになる。これは一面の事実だと思います。

    だから単に法律で定められた刑罰だけでなく、みんなでボロクソに酷評して評価を地の底に落とすような社会的制裁も、なくてはいけないものなのかもしれません。

    ただ重要なのは社会的制裁だけで終わらせてはいけないということで。感覚的にいえば、炎上による抑止効果は息が短いです。バイトテロみたいなものも、叩かれてしばらく収まったかと思うと、数年後にはまた同じようなことが繰り返されます。
    その度に生贄を捧げるように悪いやつを叩いて、世間に 「これが悪いことだ」 と知らしめて、同じことが起こらないように抑止する…。

    そんなことをするより 「なぜこういうことが起こるのか」 「今後起こらないようにするにはどうしたらいいのか」 をその機会に徹底的に突きつめて、法律や制度をつくって抑止するようにした方が、効率がいいと思いませんか。

    政治の裏金の問題については政治資金規正法がザル法だってことが少なくとも十年くらい前から言われています。僕がその法律を知ったのは2016年に舛添都知事の公私混同が騒がれたときですが、結局そのときも炎上しただけで政治資金規正法の抜本的な改正はおこなわれず、今また政治とカネの問題が炎上している。

    単に政治家をSNS上で叩いて 「これくらい叩けばいいだろう」 と満足するだけじゃ忘れた頃に同じ問題が起こるだけです。辞めさせるとか選挙で落とすとかっていうのも手ですが、穴の空いた檻に噛まないイヌが入ってくれることを期待するよりも、檻の穴を完全に塞いでしまう方が合理的じゃないでしょうか。

  • 法的な措置のわかりづらさと遅さ
    なぜSNS炎上が社会正義の代役をしてしまうのか、それには僕なりに納得できる理由があります。それは立法や司法などの法的な措置が人々の感情的な盛り上がりに対してあまりに遅すぎることです。

    僕が2021年に記事に書いた 「セックスワークにも給付金を訴訟」 でいうと、最初の判決がでたのは2022年6月で提訴から1年半以上もあとです。さらに最高裁までいっているので最終的な判決は現在でも出ていません。

    僕がこの訴訟にこだわるのにはいくつかの個人的な事情があるのですが、自分自身がウリセンをしたこともあり、給付金業務に関わったこともあるという、2つの業界を僅かながらいちおう知っていることが大きいです。

    そんな当事者意識の高い僕ですら、この訴訟の動きをずっと追うことはできていません。期間が長すぎるし裁判にはそんなにドラマチックな展開があるわけでもないため、飽きずに追い続けるのはよほどの関心がないと難しい。

    同じようなことが政治課題にも言えます。いま起こっている問題に対処しようとしても、国の法律を変えたりつくったりするのにはものすごく時間がかかる。

    たとえば政治資金規正法を変えるためには数ヶ月~数年レベルの闘いが必要だろうけれど、そんなものについてきてくれる有権者は多くなくて、SNS上で 「あいつは悪い!最悪だ!」 と即レス的な社会的制裁を加える方がよっぽど感情が満たされる。そうすると政治側も即レス的な辞任やら更迭やらでケリをつけて、檻そのものの欠陥は放置されたままになる。

  • グレートリセット願望の高まり
    (これは自戒も込めたものですが…)

    日本に住んでいると行政も司法もなにもかもが細かい縛りばかりで、手続きの簡略化も進まないし省人化もできないし、まるでがんじがらめで身動きがとれない絶望を感じることが多いです。

    「デジタル化やインターネットによって新しい民主主義を」 という言説に期待をもったこともありました。何年かに一度の投票なんていうまごついた政治じゃなくて、即レス的なスピード感の早い政治がおこなわれればもっと良くなっていくんじゃないかと。

    そういう期待を捨てきったわけじゃないですが、結局のところそのためには現在の 「紙や手紙や電波放送の時代につくられた法律や規則」 をひとつひとつ片付けていかなければいけなくて、その労力たるや、300本のイヤホンコードが絡み合った巨大な玉を目にしているようで…。

    その絶望にぶちあたると僕みたいな人間は "グレートリセット" に期待するようになってしまうんですね。宮台真司さんのいう "加速主義" みたいなものです。いっかい行くとこまで行って全部崩壊してしまえば、そこから新しくつくりなおすことができるというやつです。コード式のイヤホンなんて時代遅れだから300本全部ゴミに捨てて、ワイヤレスに切り変えたらええやんと。

    でもそれは違うんじゃないかと最近は思うんです。
    というのも僕は30年以上、個人的にグレートリセット的な生き方をしてきたんですよ。主に人間関係とか仕事の面で。

    高校も辞めたし、バンドも辞めたし、仕事も同じところで継続することはなく、数年はたらいて信頼関係ができたとしてもあるときにふっと嫌になって音信不通になる、みたいな。

    そんな風に僕は 「こんな絡み合ったあれこれを一個一個ほぐしていくよりは、新しくいちから始めた方が手っ取り早いしすっきりしていいや」 と思いがちな人間なんですね。

    実際、地元の人間関係やら荷物やら趣味やらをぜんぶ捨てて、引越して第二の人生みたいなものを始めようともしました。それまで音楽に人生のほぼ全てを捧げていた僕ですが、引越しの前に人気のない河原でアコースティックギターを叩き壊すという生まれ変わりの儀式みたいなことまでしました。(ゴミはちゃんと持ち帰って片付けました)

    でもなんていうかそんなにきれいにうまく生まれ変われなかったんですよね。結局、今の自分を過去から切り離すことができなかったというか。継続性の中でちょっとずつ変えていくしかないし、なんか 「強くてニューゲーム」 みたいなことは無理なんだなと思ったんです。

    まぁこんな話は単なる自分語りで、国や政治とはなんの関係もないことなんですけど。僕みたいにぐちゃぐちゃになってどうしようもなくなったときにリセットを選んできた人間からすると、その先の世界ってのは思ったほど良くない可能性があるっていう、そういう感覚的な話です。

    なのでグレートリセットが実際にうまくいくかどうかはわかりません。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。バラ色の未来が待ってるかもしれないし、暗黒の荒野が広がっているかもしれないし、どちらでもない日常がただ延々と続いていくだけかもしれない。

    僕個人的には、そこに期待をかけるより他のやり方があるんじゃないかとは思ってます。今はまだ。この先どうなるかはわかりません。

    とりあえずSNS嫌いなのに見てしまうという状況をどうにかしたいと思います。そんなことばっかりnoteに書いててもしょーもない。これ自体がSNSなわけですし。もうアカウント消しちゃおうか。とかいうのもグレートリセット的な発想ですな。繰り返される自問自答、諸行は無常、性的衝動、今日こそやろう、腹筋運動。

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