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『からこといのち通信 №15』9月号 2021/8/14 発行

『からこといのち通信 №15』9月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2021/8/14 発行

私が竹内演劇研究所に初めて入ったのが1981年秋、そしてもうすぐ2021年秋。いつの間にか40年が経ちました。竹内教室の受講生として3年、竹内レッスンのスタッフとして4年。1988年に人間と演劇研究所を立ち上げて新宿の地下スタジオを拠点にして18年。スタジオを離れたのが2006年。以来、公共施設を利用して14年間の定例会と合宿。コロナのこの1年は合宿のみの活動。3年+4年+18年+14年+1年=40年、間違いないようです。

私の年齢を重ねてみると、24才研究生、28才スタッフ、31才人間と演劇研究所立上げ、49才新宿スタジオ撤収、公共施設利用のWSから、63才コロナでStayhome、この秋64才。この間何をしていたかといえば、「からだとことばのレッスン」(野口体操+竹内レッスン)一筋。紆余曲折の道をジタバタと歩んできたのかと思いきや、振り返ってみると驚くほどにブレがない。

カーリングのストーンが氷上を滑って、障害物をモノともせずに薙ぎ払っていくような、そんな重さと慣性に任せた等加速度運動に乗って、この40年を進んできてしまったように思う。私の意志などちっぽけなものである。振り返ってみれば、ストーンの慣性に全く抗うことができなかった。なぜかそのストーンが私の「からだ」に思えてくる。石のように硬い身体だというのではない。ずっしりとした重量による慣性と軽々しく滑らかな動きが同居している「からだ」。

そういえば子供のころに繰り返し見た夢がある。夢の中で、重々しい響きを立てながら、黒い流れが進んでくる。流れに触れた途端、雷に弾かれたように吹き飛ばされる。痛みが奔り、そして目が覚める。汗が滲み、心臓が激しく波打っている。何度もなんども同じ夢を見た。あれは自身の「いのち」の流れに抗おうとする小さな自我が、本体としての「からだ」の力に打たれはじかれる、そんな体験だったのだろう。自我の力によって、自己を屈服させることが私には出来なかった。むしろ留めようのないその流れに連れられて、ここまで来てしまったようだ。

同世代の仲間たちを見ていると、人生の折節に各人が自らの混沌に目鼻をつけ、社会との均衡を取りながら、自己を作り上げていったのだろう。私はと言えば、自身の混沌をそのままに、その赴くところに任せて生きてきてしまった。混沌は目鼻を付けることを嫌う。だから私は私自身に目鼻をつけることが、長年の課題だったのだろう。混沌は目や耳がなくとも、見ることも聞くことも語ることもできるのかもしれないと、今では思っている。少なからず、混沌と自分の葛藤、その胸苦しさから私は、ようやく解放されてきたようだ。混沌から逃れようと、現状の一足先に意識を置く癖を、この頃ようやく自覚し始めた。混沌(カオス)= 宇宙(コスモス)、そんな突拍子もないことが成り立つのなら、愉快だ!

瀬戸嶋 充 ばん

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【1】 琵琶湖合宿で、賢治童話『 かしわばやしの夜 』を大いに楽しみました
【2】 あまねとばんの交換日記
【3】 レッスンのご案内( 9/24-26、11/26-28日、秋の伊豆合宿を開催します )
【4】 あとがき( オンライン番組の配信始めます )
【5】 バックナンバー( ばん|note ) 

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【1】琵琶湖合宿で、賢治童話『 かしわばやしの夜 』を大いに楽しみました

夏の琵琶湖合宿では、宮沢賢治童話『かしわばやしの夜』をテキストに「からだとことばといのちのレッスン」を進めました。夏の祭りの第三夜、百姓の清作と、柏の樹大王と柏たち、赤シャッポやフクロウまで、賑やかな歌合戦。お月様が衣装を着替えながら、彼らのお祭りを観ています。

合宿最終日、簡易な舞台ですが朗読劇の上演をしました。『かしわばやしの夜』が舞台に展開し、明るく賑やかな世界を浮かび上がらせていました。以下、母娘で見学に来てくれた K さんからいただいた感想です。

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こんにちは😃
先日はありがとうございました。娘と2人とても豊かな時間を過ごせて幸せです。

かしわばやしの夜、ほんとに素敵でした。舞台は客席ととけて一体となり、かしわばやしの楽しい夜を観客である私も一緒に体験しました。

かしわばやしの木々、大王、フクロウ、清作と画かき、それぞれのやりとりも、歌声も、とても楽しく、いつまでもいつまでもその光景を見ていたいと思いました。あわよくば私もかしわばやしの一員になりたいと…

ナレーションも素敵で、お月様の色、高貴な気配、光を感じ、最後には湿った霧が林を包みこむ様子が肌で感じられました。

登場人物たちのやりとりが生き生きとしていて楽しいだけでなく、その林の空気も、匂いも、色も、音も私の身体に宿り、生きているなあと、終わってしばらくたった今も思います。

その余韻は、日常の生活にも少しの変化をもたらし、娘と2人、久しぶりに夜の散歩をすることに。夜の散歩の目的は、セミの羽化の観察。もう何年もセミの羽化を見ていませんでしたが、久しぶりにその神秘的な姿に娘と2人、夢中になってしまいました。
賢治の作品を体験するとはこういうことなんだなぁと、何も感想を言葉にしない娘ですが、彼女の中にも少しの変化をもたらしたのだろうと思います。

今度は私も演じたい、いや、観客としても参加したい、いや、もっともっと沢山の人に見てほしい!ほんともったいない!

長々とすみません😅
でも楽しかったのでつい😁

ばんさん今後ともよろしくお願いします。
ではまた😊
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合宿中の二泊三日、『かしわばやしの夜』をみんなで何度も声にして読みました。賢治作品に綴られた言葉たちと、それを声にして読む私たちの距離を縮めるかのように。賢治さんの言葉が私たちの「からだ」の奥底に響くように、からだと心の緊張の壁をほどいては、声にしてテキスト(本)を読むことの繰り返し。その中から立ち上がってきたのが、最後の上演。キレイにまとまったものではありませんが、賢治さんの世界がその場に息づいていたように思います。

そして、、、その場で舞台を観てくれた K さんが素敵な感想を書いてくれたのです。

舞台の様子を皆さんにも共有して頂ければと思います。こちら https://youtu.be/OUCgFBS4Itw のYouTubeに朗読劇本番の様子を限定公開で投稿しました。どうぞご覧ください。楽しんでいただければ何よりです。よろしくお願いします。

合宿参加者の皆さん、K さん母娘、宿舎スタッフのご家族、、、琵琶湖さん、素敵な夏のギフトを、ありがとうございました。

なお、参加メンバーのChihoさんと合宿の振り返り会をして、ライブ配信しました。https://youtu.be/r3hZX7e2eT0 こちらも合わせてご覧ください。

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【2】あまねとばんの交換日記

あまねさんは、美大出身で油絵専攻、インタビューをライフワークとして、現在は子育てに奮闘中。( あまねさんの最近の記事「あそどっぐ インタビュー」 https://note.com/kobagazin/m/m52dc197ffbaf

お題の(Ⅰ)『ぶら下がり(野口体操)の動き』【通信№14より 続き】

ばん(6/23)--------

あまねちゃん

よくここまで!と思うほどに言葉にして貰えたなぁ!!大変だったでしょう。

「巨きな」と言ってくれたこと。これは「ぶら下がり」(この動き)を始めたころから、私には体験されていたことのようです。

立っている状態からぶら下がりの状態へと移行する。この「ぶら下がりの状態」を、振り返って言葉で言い表すことが難しかったのです。まるで夢を見ていたようなもので、目覚めて意識が働き始めると、夢は朧(おぼろ)な体験として思い返されるだけ。ぶら下がりの最中のことも同様で、立ち上がって目を開くと、さっきはどこに行っていたのだろう?という感じです。

https://youtu.be/A47fuCWC5Ms 動画 0:00~0:30と1:10~1:55くらい2か所が「ぶら下がり」の動き )

ぶら下がりの動きをやっているときの印象は、「海や空気に同化している」とか「溶けてなくなる」「いのり」「色即是空空即是色」などなど、起きてきてから言葉にするといろいろと浮かんでは来るのですが、それは実際の体験を表すには薄皮一枚くらいの隔たりがありました。「巨きな根拠」=「無限」ですね。人間の視野も知性も「有限」ですね。その「有限」の眼差し(相対知)からは零れ落ちてしまうのが「無限」(絶対・智)ですね。「グレートサムシング」という言葉を使った科学者がいましたが、有限としての私が無限の側に立ってしまう、私と「グレートサムシング」との距離が奪われるのが、私にとっては「ぶら下がり」の動きですね。

「ぶら下がり」の動きに私が入っているときに意識しているのは、私と周りの世界、或いは周りで見ている人の存在と、私との間にある「隔たり」(距離という相対概念)が消失してしまった状態です。「有限」から「無限」へと立ち位置がシフトしてしまっている。説明という有限(相対知)に位置する言葉では表せないのが当然ですね。言葉にするには詩とか禅のことば(禅問答)とか、「無限」に触れようとする意志を持って書かれた言葉によってしか、言い表すことができない。

話しは変わりますが、私は竹内演劇研究所時代に、竹内敏晴から研究所スタッフとして手伝ってくれないかと指名され、レッスン受講者の立場から、レッスンを(指導)する側へと入っていったのですが、なぜ竹内敏晴が私をスタッフとして拾い上げてくれたか?あまり考えずに来ました。むしろ何の役にも立たない(立ったことがない)自分を、竹内が拾ってくれたことへの喜びだけが私の心を占めていたように思います。だから当時は一所懸命やりました。

けれども人間の心理や、ボディーワークについて何も学んでこなかった私です、人の役に立つようなことは、何もできない。当時の研究所には東大生がごろごろ(笑)、臨床心理に関わる人や、コミュニケーションについて実践の先端に立つような人、学校改革を考える人、アーティスト。みんな、各自の専門を持っているのです。云わば皆さん賢い人たち。私はといえば世間の求めにつながる知識や技能を持っていない。大酒のみで蘊蓄を語るのが趣味。(1980年代)

私の周りの人は竹内演劇研究所に、それぞれに大切な何かを求めてきているのに、私は楽しいからという動機しかない。今思えばその当時、大学時代です。私は社会や人間関係に適応できずに孤独を感じて、悶えていたのでしょう。それが「竹内演劇研究所からだとことばの教室」に足を運ぶと、孤独感が癒される。美酒に酔い、美酒を求めて、、、。そういえば当時、母や親せきから、何かの新興宗教につかまったのではと、問われたことがありました。

そんな私が、研究所スタッフに誘われて、なぜかレッスンをリードするようになる。なんの専門も人の役に立つような技能も資格も持たない私を、なぜ竹内が拾い上げ、教室参加者も「ばんさん、ばんさん」と持ち上げてくれたのか。それは竹内や参加者の側から見て、私には何かがあったのかもしれない。でも私には人に誇れるようなものは「何も無い」。。。野口体操や竹内レッスンに関する有能な人たちも大勢いた。。。。「何もない!」と私は、当時からずっと考えて居た。。。ところが「ぶら下がり」=世間知から離脱。それだけは当時から私には親しいものであった。ソクラテス言うところの「無知の知」。。。私が、楽しいだけでなんの役にも立たないと、決めつけていた「ぶら下がり」、そこに現れ体験される「グレートサムシング」=「からだ」。

実は、私に与えられた個性は、そこに在ったようです。私の善し悪しの基準は知識ではなく「からだ」(=いのち)に響くか否かだった。世間という相対知で組み上げられた世界の中に、私が自分の立ち位置を獲得できなかった理由です。今では、当時のひどい孤独が当然なことだと思えています。面白いですね、最も自分らしい個性を、自分と認められない。それが今頃になって、40年の歳月を経て、ようやく自分らしさと認められるようになる。

「ぶら下がり」=自分の肯定。これって実は、今頃になって私が出発点に立ったということなのかもしれません。これはまだ言葉に成り切らない処ですが「野口体操」(からだとことばといのちのレッスン)をするということは、自己の「全肯定」の作業だと思い始めています。善し悪しの判断を超えたところへと、自分を連れていく行為であり、同時に「からだ」に自分が導かれていく行為かもしれません。

「巨きな根拠」は私が意識するしない、価値を認めようと認めまいと、既に私という存在に先立って在る存在=根拠ですものね。『風見鶏』とは、お見事!ありがとう、あまねちゃん。

交換日記といいながら、自分のことばかり書き連ねてしまいました。でももしかしたら、あまねちゃんの「虎」に連なっていくのかも。「ぶら下がり」はいきなりあっちの世界に行ってしまうことですものね。「虎」のレッスンもあっちの世界に踏み込む作業ですからね。

ばん

あまね(7/7)--------

ばんさん

球も見えてない状態でフルスイングしたので、
ばんさんからお返事くるまで、狐につままれたような心地でした笑
でも、バットが球にあたっていたようでよかった!
打席に立つまでは時間を要したけど、立ってしまえばあっという間で、
書きはじめたら、いつもどおりぐ〜っと呼吸するように書きました(ばんさんとの交換日記はこの感触がおもしろい)。

ばんさんのぶら下がりとの出会い、グレートサムシング、からだ、野口体操、現在にかけてつながった、巨きなストーリーの河がざあっと流れていくここちよさ、ばんさんのうれしさが伝わってきて、わたしもとてもうれしかったです。
「私の善し悪しの基準は知識ではなく「からだ」(=いのち)に響くか否かだった。世間という相対知でくみ上げられた世界の中に、私が自分の立ち位置を獲得できなかった理由です。」
を読んで思いだしたのは、母のことです。

私の母も、大人たちが価値を見いだした「名誉」だとか「勝負」だとか、成長するにつれそういうものに目覚めていく友人をみていたのだけど、母はまったくそういうモノのよさが分からなくて、大人になっていく周りの人間を見送り、ひどい孤独を味わったようです(そして今も)。
大人の世界に魅力をまったく感じず、心身の成長にブレーキをかけ、結果母が、関わるに足ると思ったのは赤ちゃん(母曰く「赤ちゃんは大人のまとっている鎧がなく、「生(なま)」でやり取りできるからとてもたのしい」)。
赤ちゃんのなかでも、分かちがたい距離で関われるのが自分の子供。つまり兄と私だった。
・・・そんな母に育てられた私だったから、風見鶏してるばんさんのいる空間というか、匂いに覚えがあったのかもしれません。

わたしは愛想のなかった子供だったようで、分かりやすく、笑うとか、かわいらしい仕草をするとかはなかったらしい。
そういうところじゃなく一生懸命虫やモノみてるとか、そういう地味〜な作業で、
自然の巨きさに触れて、感激して、わたしの中身がイキイキしている(パッとした見た目にはほぼ変化なし)
・・・ということを母と兄は分かっていて、
私のイキイキ感を受信して母と兄もイキイキとしている・・・そういった循環のなかで幼少期をすごしたんですよね。
自然と、親しい家族と自分とが「イキイキ」でざ〜っとおおきく流れて繋がっている感覚がとてもうれしくて、じぶんの命を縮めずに、むしろのびのびと安心して生きていました。
その幼少期のイキイキ循環を恋しい、と叫んだのが虎なんじゃないかなあ。

ぶら下げは、内なる自然である「からだ」と、頭にくっついてる自我で途絶えた
「イキイキ」回路を、つなぎなおす作業、と捉えています。
脳みそでいえば、右脳(感覚 ≒ からだ)と左脳(自我)を結ぶ、脳梁を太く、活発にして、「脳」としての1個感を取り戻すようなかんじ。
「打倒自我、イエス身体!」という勝敗じゃなくって、バランスをちょうどよい塩梅にする、それだけ、というか・・・

あまね

ばん(7/15)--------

からこといのち通信№14に「やっぱりそのころから世間の価値観に照らして、自分の善し悪しを裁くことができなかったのだと思う。自分の価値(商品価値)を説明するという発想がなかったのだろう。むしろ自分に対する気持ちはいつも『好き!』だったように思う。だから徹底して自分を大事にしてきたのかもしれない。」と書きました。

この自分を「好き!」はどこから来たのだろうと考えました。自分の考えというより、「誰かが、私のことを心底徹底して好きになってくれた!!」それが私の中に体験として在って、私も「自分」(=私)を好きになることができるようになったのだろう!!!、と。

もちろんその誰かは「母」です。田舎育ちの自然児であった母は、前置き抜きに全くの手放しで、心の底から私のことを「好き」になってくれたのだと思います。母はどちらかと言えば、「知」や「思考」よりも「情」と「正義」の人でした。

ふつうは子供に対して、美醜、素質、能力など、親の考えや期待に応じた評価が入ってしまう。いわゆる親自身の期待を子供に負わせてしまう。期待に答える子供を「好き」、期待から逸れれば「キライ」。

私の母は、そういう比較評価や選り好みの眼差しを一切抜きで、子供(=私)を「好き!」になってくれた。またそういう風(ふう)に、手放しで人を好きになったり、計らい抜きに人に信頼を預けることのできる人でした。(だからこそですが、実は「母」も私も、実際の人生の中では痛い目に会う場面が度々ありました)

このような「好き」になり方って、現代人にはわかり辛いかも知れませんね。いまのひとは子供の将来を心配せざるを得ないので、子供を見るときに他人との比較や計算が入ってしまう。競争社会ですものね。手放しでは危なっかしくて堪らない。私の子供のころは、戦争が終わって一先ず生活が安定し、新たな生活への期待が持てるようになったころですが、下々の者にとっては、競争はのんびりしたものでした。それに『子供は宝』『天からの授かりもの』であるという考えもまだ生きていたと思います。

結果として私は、現代人として生きる上での「鎧」(競争のための)を、身につけることなしに育ってきてしまった。私は、自分の好きなことは徹底してやるのですが、逆にやりたくないことは一切やらない。勉強というのはだいたいが、防御のために、「鎧」に細々(こまごま)と鉄片を縫い付けて行くような作業ですから、そんな面倒なことはやりたくならない(百人針?)。もちろんそういう私を、母は心配しながらも肯定(好き!)し続けてくれた。

けれど、いくら「自分を好き」といっても、そんなある意味「裸」の自分を、自分で肯定することは、一筋縄ではいかない。身なりをそれなりにきちんとした人たち(世間)と関わろうとすれば必ず齟齬が出る。

向かう世間の息苦しさの中で、その「裸」の自分に肯定的な評価を与えてくれたのが、20歳を過ぎて出会った野口体操であり竹内レッスンだったわけです。世間体という「鎧」をはぎ取って、心を剥き出しにして表現をする。そのための「からだ」へのアプローチを大切にする。簡単にいえば「からだの力を抜く」(=心身の強張りを解消する)。そして実際のその真ん中に、「からだ」のエクササイズとして『ぶら下がり』(野口体操のポーズと動き)があるわけです。

身にそぐわない「鎧」(=緊張)を脱ぎ捨てる解放感と喜び。そしてその裸のままで育ってきた「大好きな自分(=私)」の肯定。きっと「ぶら下がり」は私にとって「大好きな自分」といつでも会える方法なんですね。「ぶら下がり」をやってるときは、好きな「自分」が活躍できるんです。

だからぶら下がりの動きには、心地よさと同時に、懐かしさも観て取れるかもしれません。

ばん

(つづく)--------

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【3】 レッスンのご案内

●秋の伊豆川奈合宿開催決定
秋の心地よさをご一緒しましょう。からだとことばといのちのレッスンにはもってこいの季節です(笑)
⦅Ⅰ⦆2021年 9月24日(金)~26日(日)
⦅Ⅱ⦆2021年 11月26日(金)~28日(日)
詳細は以下ホームページをご覧ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/2021%E5%B9%B4%E7%A7%8B%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%B7%9D%E5%A5%88%E5%90%88%E5%AE%BF/

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内は、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

● 琵琶湖和邇浜合宿
恒例になっています琵琶湖合宿、来年も開催します。

・2022年1月8日~10日 琵琶湖冬合宿

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【4】 あとがき

● YouTube動画を使って、番組配信をはじめようとしています。できれば世界の片隅で日々を静かに楽しみながら、地味に生きていくのが自分の性に合うことと思っているのですが、そうも言っていられない時代になってしまったようです(笑)
● 今のところ出たとこ勝負で、私のおしゃべりや誰かとの対談など、人の迷惑を顧みず採算も考えずに、ネット上に放り出して行くつもりです。私の性格からすればとんでもない恥さらしなことですが、レッスンの継続を考えると、今は他に手立てが見つかりません。私のレッスンは、参加してくれる人と私との交流によって、育ち生まれたものです。それと同じように今度はネットを通じた交流も含めた中に、「からだとことばといのちのレッスン」が息づき育っていかないものかと思っています。
● 配信の内容についてのご意見や感想・質問はもちろんのこと、ネット利用へのアドバイス等もふくめ、皆さまのお力添えを望んでいます。よろしくお願いします。
● 未配信の私のおしゃべりを、先ずはこの通信の場でオープンさせてください。「からだ」について、事前準備無しの出たとこ勝負で私が語っています。
https://youtu.be/Ce_sJz2i9vo
https://youtu.be/KDSErBp7hps
https://youtu.be/vF3gjyjfrJU
動画のナンバーと一致していませんが、順番は①~③の通りです。
よろしくお願いします。
● 「こんなはずではなかった!」といいますが、「こんなはずではなかった!」とはあまり言うことのない私ですが、「こんなことになるとは!」と自分の挙動に驚いています。そうそうにゴールは許してもらえないようです。レッスンへのお付き合いを切に願います。
● 「からこといのち通信」をご覧いただきありがとうございます。
(せとじま ばん)

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【5】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №15』9月号 2021/8/14 発行

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