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小説:素晴らしい景色の山小屋

4年前に勤めた山小屋の玄関を開けると、懐かしい声がした。

「あれ、高崎君山やっとったっけ? おかしいなぁ、確かやっとらへんかった気がするんやけど。俺も歳かねぇ」

 受付の沢村さんは目を丸くして言った。俺は「高崎です、覚えていますか」と切り出そうと思ったが、いらぬ心配だったようだ。

「いえ、やってませんよ。ただ懐かしくなって」
「この山荘に愛着持っててくれたんやなぁ。ありがたいわ。そうや、今日晩飯うらで食ったらどうや」
「ほんとですか! じゃあ、お言葉に甘えて」
「そんじゃ、1泊9000円ってことで。毎度あり」
「え? 元従業員割とかないんですか?」
「そんなら今から裏で働いてくか?」
「いや、結構です」
「まぁ、そうやな。じゃあ、高崎君コマクサね。場所わかるやろ」

 コマクサは個室の名前である。ここからの鹿島槍ヶ岳の景色は抜群にいいのだ。ここで働いている時は、掃除の時間こっそりスマホで写真撮影をしていた。

「なんですか。元従業員割りあるじゃないですか」

 個室は通常価格である9000円に比べ2500円高い。

「まあ、ゆっくりしてけや。疲れとるやろうし」

 沢村さんは俺にひらひらと手を振った。

 個室にザックを置き、俺は外に出る。風が冷たくて気持ちがいい。晴れてはいるがうだるような暑さもない。空も、吸い込まれそうなくらい真っ青だ。ベージュの山肌、木々の深い緑、雪渓の白、すべてが鮮やかな色彩を持っている。下界とはやっぱり違う。何もかも違う。都会の空気から逃げてこれたという事実だけで、この稜線上にある山小屋に来てよかったと思う。

ゆっくり山頂に行こう。爺ヶ岳山頂。そこがこの山小屋から一番近い山頂だ。歩いて大体20分くらいで着く。そこで、剣岳でも眺めて時間をつぶそう。

爺ヶ岳山頂からの景色は素晴らしいものだった。それと同時にここが日本であると信じられない。北アルプスはそういう場所だ。だからウォルター・ウェストンもこの飛騨山脈を北アルプスと名付けたのだと思う。イヤ、万年雪に削られてできた地形が本場のアルプスにそっくりだったからだろうか。ギザギザした剣岳を見て俺はそんなことを考えていた。

爺ヶ岳からは剣岳がよく見える。しかし、猫の耳のようにぴょこんと二つの山頂を持つ、爺ヶ岳もそのフォルムの美しさでは、負けていない。気が付けば、俺はノートを開いて、その景色をスケッチしていた。何ともまぁ、哀れである。でもこれが答えなのかもしれない。いやいや、何が答えだ。自分に酔うのはもうやめるんだ。こんな売れない、いや、デビューもまだできていない漫画家の絵なんて誰が見るのだろうか。

 夕焼けが終わり、西の空が名残惜しそうに赤い色を残している時、俺は従業員室に呼ばれた。従業員が自分たちの食事を談笑しながら机の上に並べている。ほとんどが知らない人だったが、夕飯時が終わり、ほっとして緩んだ空気は4年前と変わらなかった。

「どうも、高崎です。4年前ですがここで働かせてもらいました。忙しいのに、すみません」
「いいよいいよ。久しぶりに会えてうれしいわ。」
「重本さん。今年も働いてたんですか。すごいですね」

重岡さんは元気いっぱいの笑顔で俺を歓迎してくれた。この人は4年前に一緒に働いていた人だ。4年前、彼女はその性格のおかげもあってかこの山小屋のお母ちゃん的存在になっていた。今年もそうなっているのだろうか。そうなっているに違いない。

「やっぱなんか好きやからさ。この仕事。しかしさ、なんか見ない間にちょっと雰囲気変わった?」

 重本さんには申し訳ないがすこし答えたくない。

「今日はお客さんもいるんで、お酒とかジュースのんでいいよ」

 沢村さんがいいタイミングで、みんなに飲み物を聞く。重本さんの興味がすぐさまそちらに向かい、「ビール!」と叫ぶ。山小屋は資源が限られているので、いつもは節約のためお酒を飲んだりはしない。従業員がはみずから運んできたのなら話は別だが。

「重本さん。あかへんて。お客さんが先やよ。高崎君どうする? やっぱコーラか?」
 沢村さんが、興奮する重本さんをぴしゃりと制し、俺に尋ねてきた。それにしてもどこまでも記憶がいい人だ。

「いえ、ビールで」
「あれ、酒あかんのやなかったっけ?」
「いや、飲んでみたら意外とおいしいなって」

 それに、こういうタイミングだ。飲まないわけにはいかないのである。社会ではそうするとうまくやってゆけるのだ。

 食事が終わり、消灯の時間がやってきた。俺は外に出て星を見上げる。夏山と言っても標高2500メートル以上の高山だ。気温は5℃。かなり寒い。星空を撮影する物好きを除いて宿泊者はみな小屋の中に帰ってしまった。人が少なくなるにつれ、音が減ってゆく。とても静かな場所だった。

「おーさび。ここにいたか」

 ヘッデンをの光がまぶしくて顔は分からない。しかし、沢村さんだろう。声でわかった。

「なあ、よければ続きどうや。酔っとるならコーラでいいから」
「え?」
「なんかあってここに来たんやろ。山やってない若もんが来るなんてそんくらいしかあらへんやろ」

 優しい声だった。沢村さんにはばれていたのか。

「すみません。でも、今回はお酒にさせてください。お酒がいいんです」
「わかった。ウイスキーあるから飲みに来い」

 沢村さんは一足先に山小屋に入っていった。

 人は小学校と中学校、高校に入るために勉強をし、高校に入ったら大学に入るために必死に勉強する。そして大学に入り、企業に勤めその企業で一生働いていく。サラリーマンとして一生社会の土台となり働いて行く。それが普通の一生、いや、人の一生だと思っていた。それ以外に選択肢なんてないと思っていたのだ。しかし、大学の夏休みの思い出にと申し込んだこのバイトの従業員にそんな人は一人もいなかった。

フリーターの人や、季節労働者、脱サラして夢を追う人、定年後のおばちゃん、山で働くことを夢にした人。そういう人が集まった。

衝撃的であった。それと同時になんだかうれしい気がした。小さいころからふんわりと親や学校に否定されてきた夢を持ってもいいんじゃないかと思った。漫画家になる夢だ。

 ほんのりと夢を見たと言ってもやはり現実は厳しい。俺は就活をして普通の企業に勤めることになった。そこは給料はまあまあ出るし、東京のかなり便利な場所に本社がある。条件だけ見れば山小屋なんかより仕事の条件が良かった。

 しかし、俺はそんな環境で壊れてしまった。厳しい競争に、相手のことを考えない営業、そして取引先のごまをするためにキャラを無理やりつくって無理やり酒を飲む宴会。そんな毎日が続いた。俺は居酒屋の便所で毎晩吐きながら思うのだった。自分は会社にうまいこと使われるだけのぼろ雑巾なのだと。俺がこんなに苦しくても誰も助けてくれる人は現れない。このままでは持たない。

 だが、まだ俺は折れてなかった。唯一脱出する方法があると山小屋で学んだからだ。そしてその脱出する手段で選んだもの、それが漫画だった。まともじゃないかもしれない。でももう、それで一旗揚げなければ生きていけないと思った。なので、毎日帰宅後はどれだけ酔っていても漫画を描くことに神経を注いだ。友人に呼んでアドバイスをくれと頭を下げた。そうして、少年誌の賞の締切日がやってきた。

 漫画を読んでくれと頼んだ友人からは一通もアドバイスはなかった。しかし、何度も見返してぎりぎりまで手直しを行ったのだ。いい結果が出るに違いない。

 一次選考落ちだった。天国から垂らされた蜘蛛の糸がちぎれたような気がした。それと同時に周りのすべてに絶望してしまった。助けるどころか自分を蹴落とし、利用しようとする同僚。力になるなど言っておきながら結局は自分のことしか考えてない友人たち。皆信じられなかった。

だから、そんな人がいない場所に行きたかった。山小屋はみんな違う方向を向いていた。だけどお互い支えあい、尊敬しあって厳しい山小屋生活を乗り越えていたのだ。その雰囲気がたまらなく恋しくなってしまった。

「なるほど、それでここに来たんか」

 沢村さんはウイスキーをじぶんのコップに注ぎながら言う。山小屋には氷はないし水は貴重なので一ミリも薄めていない。ショットだ。

「はい、そうらんです。みんなもうあれで。」
「それは大変やわな」
「でも、俺! ここの皆さんみたいになりたいんです! 夢を追って好きに生きてゆきたいんです! 俺はだめれすか!? 凡人の俺がそうやっていきていくのはらめなんですか!?」
「大丈夫。お前ならできるよ。大丈夫」
「でも、いいんれすよ! おれはぼろ雑巾として生きていくのですよ! そうするのがいいんです」

 二日目、爺ヶ岳を超えて鹿島槍ヶ岳まで行ってきた。昨日、就寝後に毒を吐ききったおかげか、穏やかな気持ちで歩くことができた。やはり山の空気は気持ちがいい。もう一泊してゆきたかったが、明日からはまた仕事だ。

 なんだか久々に気持ちのよい休日を過ごせた。こんなにも楽しい休日が毎週くるのなら今の仕事で妥協するのもいいかもしれない。また、山小屋に生きる道は一つだけではないと教えてもらったのかもしれない。漫画家になることだけが今の状況から脱出する方法ではないのだ。

 最後に、山小屋に挨拶をしてゆこうと、山小屋に顔を出した。受付にいるのは沢村さんではなかったが、伝言を伝えてもらうことにしよう。

「ちょっと待っててください」

 若い従業員が沢村さんを呼ぶ。そんなことしなくていいのに。沢村さんが受付に立った。

「帰るんか。気を付けて」
「え、ああ。はい」

 わざわざ来てくれたにしてはあまりにもたんぱくな対応だ。なんだか少し、肩透かしを食らってしまった。しかしまあ、忙しいのだろう。俺も帰ることにしよう。

「高崎君が予約した来週の土日、晴れそうや。でも、予約いっぱいやから、従業員の寝床使ってくれへんか」

「え? 何を言っているんです?」

「そっちこそなにいっとるんや。高崎君はあと最低二回はここにこなあかへんのや」
「なんでですか!?」
 全く意味が分からない。しかも、沢村さんは本気だ。冗談を言う時の態度とは全く違う。

「来週は、高崎君が描いてくれた漫画をこの山荘に持ってくる日や」

「え?」

「それでもう次は、みんなが書いた感想とアドバイスの手紙のお礼を持ってくるんやぞ漫画家になってな」

「読んでくれるんですか?」

「当たり前や。ここにいるやつらはみんな高崎君の気持ちわかっとるよ。そういう夢持った人が集まる場所やもん」

 ああ。俺の夢を応援してくれる人だ。涙が出てきた。初めてだこんな人にあったのは。あきらめて週末を楽しみに生きようとか、そんなことは思う必要はないんだ。ここに、確かに応援してくれる人がいる。それでまだ頑張れる。一人じゃないっていうのはこんなにも心強いのか。

「おい、高島君。男は泣いちゃあかへんよ」

「うるさいですよ。こんなんずるいですよ。もう俺逃げられないじゃないですか」

 俺は涙を拭いて、手を差し出す。

「二回目は俺が作った商品も持ってきますよ」
「きたいしとるよ」

 沢村さんは手を握って答えた。今日も空は青く、北アルプスは美しかった。


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