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小説: イバラの道をゆけ

   男は天才故に変態であったがそれ以上に繊細であった。しかし、彼の創造物はどれもこれも何やらよく分からぬ臭い汁にまみれている。それゆえ飴細工のような美しい心を理解出来る伴侶となり得る女性はこの世から絶滅したと思われていた。我々どころか男もそう思っていたし、男はそんな境遇に酔いしれニヤニヤと笑っていた。したがってその一報を聞いた時、それは冗談であると我々は一蹴した。しかし、彼の態度を見るとどうもそれは真実であるらしい。男は巨漢で山で出会えば誰もが雪男と見間違えるよう風貌であったが、その時ばかりは狼から隠れ、怯えて震える子鹿のごとしであった。

   男は恋文を受け取ったのである。普通であればそのようなことがあれば、我々はうらやまけしからんと、男を木曽三川に沈めたであろう。しかし、この男に限ってはそのような気持ちは一向に湧き上がってこない。むしろ湧き上がってくるのは盛大な祝福と、助けてやらねばならぬという、硬い友情であった。

   そうなるのも無理もない。幾度の敗北や不運、それに出会う女からの蔑みの目を向けられるということが男の人生であった。しかし、男は折れることは無かった。それどころか男はその苦渋に満ちた経験を彫刻刀とし、その内側にあるにある純粋で無垢な心を芸術的な彫刻へと仕上げていったのだ。故に、男の描いた同人誌は我々の心を震わせた。

  我々の心は震えた。であれば今度は我々が恩返しをする番である。それもあるが、この男が付き合うということは我々の反逆の印でもあった。やはり、この男は乙女と一緒に幸せの街道を歩んで欲しい。

  であれば、実力行使もやむなしである。九龍城の如し彼の下宿から、生死を問わず男をこの浮世に引っ張り出さねばならない。その不毛な争いは今宵で3日目になろうとしていた。

「八木原に次ぐ! 無駄な抵抗はやめて大人しく出てきなさい! 田舎のお母さんも泣いているぞ! 君に恋文をよこした乙女もだ!」

  九龍城に呼びかけると、何階かよく分からない窓から男が顔を覗かせた。それと共に唾を吐きながら喚き散らかす。この男は九龍城を破壊するやもしれない。

「いやだい! いやだい! そもそも、私のことを悲しむ母などいない!  であればこんなところから早く引っ越せと文が届くはずではないか!  女も心の底では私を笑っているのだ!  勝手に傷つき泣くがいい!  今頃私に擦り寄るな!」

  男の気持ちはわからんでもない。都合が良いとは私も思う。が、ここは心を鬼にせねばならん。

「彼女は君が今まで出会ってきた女性ではない! だから心を開くのだ!このままでは君の心もその九龍城の如しボロアパートのように袋小路に迷い込んでしまうぞ!」

「望むところだ! そうして得た私の地位と才能だ! 決して誰にも奪わせんぞ!」

男はピシャリと窓を閉めた。参ったなぁと、空を見上げると、つーと誰かがやってきた。小さなタイヤが可愛らしい赤い折りたたみ自転車に乗ってやってきたのは、彼に恋文を送った乙女、東雲さんであった。

  何をしているのですか? そのキラキラとした瞳と、たんぽぽのような雰囲気は男を惚れされる説得力があった。実際私も惚れかかっていた。

  目を見たら惚れてしまうので、私は九龍城を見て会話をする。

「いや、八木原がね。あそこで駄々を捏ねて降りてこないんだ。どうも幸せが怖いらしい」

  東雲さんは顎に手を当てて、「ふーむ」とやったあと、私も恋文を出したのですからと、自転車を漕いでどこかへ行った。自転車に乗る直前両手をフンと突き上げて気合いを入れるポーズは実に可愛かった。ああ、男が羨ましい。なにか間違いがあれば私が彼女の隣に立つのもやぶさかでは無い。

  しかし、それは東雲さんが許してくれない。いや、拒絶された訳では無い。彼女はそのような人ではない。しかし、彼女が私になびかないということは彼女の生き様というか、堂々とした姿から伝わってくる。彼女は恐らく、男と同じカリスマだ。

  彼女はいかにも一張羅というつるりと輝く絹のドレスを身にまとい戻ってきた。そして、九龍城の前に立つのだ。

「やぁやぁ!  私は東雲三玖と申します!  これより私は貴方の心を掴んでみせましょう!  ですから窓を開けてください」

「女のために窓など開けるか!  私はアダムにはならん! 禁断の果実など口にはせぬ!」

「ならば、私がその口に放り込んでみせましょう!」

  女はそういうと、九龍城に向かって駆け出した。パンプスの音が響く。全くもって、似合わぬ後継であった。むしろ、ドレスコードを満たしていないように思える。

  だからこそ、その行動に私は舌を巻いたのである。あろうことか、女は壁をよじ登り始めたのだ!  

  九龍城の壁はすすと油がベッタリと張り付いている。私も失念して触れてしまったことがあるのだが、すすで手が真っ黒になってしまった。男も洗濯物を干す際は気をつけないと服がひとつダメになると悩んでいた。しかし、彼女はその壁を登った。壁がその美しさに免じて穢れをつけつけるのを勘弁してやるということはなく、彼女が登ったその後には布や手が触れたあとが残った。

「おい!  彼女が壁を登ってやってきているぞ! 早く外に出てこい! 」

  しかし、男は顔を出さない。

「それでも男か!」と、叫んだ時だった。男の部屋の前のベランダらしき箇所に東雲さんがたどり着き、こう言った。

「大丈夫です。」

  赤い絹の服はベッタリと汚れており、顔にも黒い油が着いていた。しかし、その笑顔は向日葵のようであった。

  東雲さんは窓ガラスを叩き割り、その中に入っていった。

「うわあああああ!  君!  何を!?  やめるんだ!  乙女がそんなことをしてはいけない!」

「大丈夫です。あなたを思えばむしろ喜びであります」

  それから数分後、男はきりりとした顔をして、九龍城から出てきた。その右手は女の左手を握っている。

「悪かった。覚悟ができた」

  男はぬるま湯の如しイバラの道から脱出したのである。それは喜べばいいのか悲しめばいいのか、彼の同人誌に魅せられた私には到底分からない。しかし、それでもひとつ思うことがあった。

「羨ましい」

「イバラの道をラッセルしていたのは案外君かもしれんな」

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