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小説:ぬいぐるみ同好会

 私はこの東大ではあるが東京大学ではなく神奈川にどっしりと構える三流大学の、無駄に膨張した敷地の端にこじんまりと構える竹林の中で体を折りたたみ息をひそめていた。

 人の心を持たぬ畜生どもに追われて奴らが私の近くを通過し、安どのため息をついてしまうたびふと思ってしまうのだ。幸せとは何か。この生活を始めてから一日たりとも欠かさず考えてきた問いである。

 この答えはいまだ導き出されていないしこれからも導き出されることはない。なぜならこの問いが脳に浮かんできた時点でそれはもう、幸せを体験できていないからである。皮肉なことに幸せであればそんな問いをする前に脳内にセロトニンがあふれ出すものなのだ。

 では幸せを手に入れた人生の勝者に幸せとは何かを尋ねてその定義やセロトニン分泌時の快感を聞けばいいではないか。そうすれば幸せになれる方法を聞くことができるし、根明で高い社交性を持つお友達クラブサロンへと仲間入りすることができるかもしれない。それが早い。それがいい。

と、本気で思っているのか?

 私たちが幸せなのは才能があったからです。才能を見せると幸せは寄ってきて幸せがさらに幸せを呼びこむのです。だから、君も才能を持たないとだめなんです。君は何をやっているのですか。

 幸せ者の理論はは大なり小なり差はあれど、核となるところを抜き出し要約すると皆このようなことを言うのだ。私は激怒した。これではただの邪悪ではないか。富めるものが運のみで財産を築き上げその富を分配しようとは思わない利己的な資本家どもと同じではないか。さらにあろうことか、腐った資本家どもはまた、こうも言うのだ。

そのままの君でいい。今の幸せを受け入れるんだ。

 そのままでは幸せになれないからこのようなことを言っているのだろう。これはこのままでは飢えてしまうのでパンを与えてくださいと尋ねる市民に対し、パンがなければケーキを食べればいいでしょうと言い放つ行為ですらなく、でもあなたは霞を食べて生きていけますよねとケーキを食べながら言い放つ行為なのである。そんなことをされて人は黙っていられるであろうか。前者の回答でさえ国を傾けるほどの大革命がおこっているのに。

 ゆえに私は畜生どものいう幸せから降り、この油膜が浮かぶ沼の底にうごめく泥のようなサークルを選んだのである。当然、今の惨状を見てもらったらわかる通り薔薇色のキャンパスライフなどは到底望むことはできない。しかし、正義の先にある真の幸せを得るためなら私は喜んで泥をかぶる崇高な魂を持つ紳士なのである。その泥沼のサークルの名はぬいぐるみ同好会という

 ぬいぐるみ同好会もまた残酷で人を人とは思わない根明どもへの革命の意思によって生まれた正義のサークルである。

 ある学生はこの大学に似合わぬ勤勉で毎度のこと授業を目の前で受け、積極的に質問を重ねていた。聞けば彼は大学受験のタイミングで持病である大腸性胃腸炎が悪化し、受験を棒に振ってしまった男であった。

 その男の家は貧乏なため浪人することもままならず、入試試験の日程が3月末まで残っており、まだ比較的ましそうだった大学がここしかなかったとのことだった。勉学に日々励むのは主席となり奨学金を全額得るという目的もあったが、一番は旧帝国大の大学院に進み、よい就職先を見つけることだという。そんな健気な彼も極悪非道の根明畜生は自分たちの養分とするのだった。

 根明どもはその男に自分の代筆を取らせ、遊びまわった。苦学生はそれを受け入れるつもりだったがある学生はそれをよしとしなかった。そもそも、代筆が大学から固く禁じられている行為である。これがばれたらその学期のすべての単位をすべて剥奪される。

「代筆は私がやっておこう。全単位落単のリスクを君がかぶることはない」

 最初は苦学生はためらったものの彼は学生にしぶしぶその役割を譲渡した。そしてその学生はその仕事を果たさず、頼まれた代筆の人数分のぬいぐるみを講義室に置いたのである。代筆したものはいなかったが代筆を行わせたものはいた。そのため根明は単位をすべて落としたのだ。

 そのようにしてぬいぐるみ同好会は生まれたのである。むろんぬいぐるみを置いた学生は私である。初めは苦学生を助けるための物であったが、大学内に代筆に苦しめられている惨めな苦学生が多いことが判明し、その活動を我々は大学全土に広げたのである。

「おや、そんなところにいたのですか」

 背後からの声に飛びあがると同時に、こんなにねちっこく神経を逆なでする声は根明のものではないと悟る。

「なんだか正義のヒーローにしては惨めですねぇ。どれお助けしましょうか」

 この男の名は小柳。卑劣を人の形にしたらこの男になる。趣味は他人の不幸を笑うことと他人の仲を切り裂くことである。そして、まことに残念なことにこの男は私を除いたぬいぐるみ同好会唯一の会員なのである。そもそも、どのサークルにも参加していなかった私にとってこの学内ぬいぐるみ身代わり作戦を行うだけの情報は持ち合わせていない。その情報を持ち合わせ、さらにぬいぐるみを用意したのがこの薄気味悪い妖怪なのだ。

 もちろんこの男は正義感から行動しているわけでは決してない。先ほども述べたようにこの男の趣味は他人の不幸を笑うことである。ゆえに、この活動を行えば不幸の花畑を拝むことができると、情報集めに八面六臂の活躍を見せているのだ。

「こんなところ見つかるのも時間の問題ですぜ旦那。はやくいきましょうや」

「うるさい! 貴様に言われたくはない! 早く行くぞ!」

「あ! そんな声を上げたら!」

「見つけたぞ! お前ら! けちょんけちょんにしてやる!」

 何と屈強な根明たちがゴリラのような息を立ててこちらに近づいてくるではないか。そして、その瞬間私は後悔した。この卑劣な男の手を刈りたくないという自尊心をこの場で発揮すべきではなかった。ここはひとまず我慢し、無事下宿先に帰ってから蒸し鍋をつつき説教をすればよかったのである。しかし、ここはそれを我慢できなかった私のミスであり、私がうかつだった。万事休す。正義は悪に屈してしまうのか。

「待て! 控えるがよい! この暴徒どもめ!」

 竹林の手前にある丘の上から男は叫んだ。後に聞いたところによるとその男は生徒である我々がその存在すら知らなかった生徒会の会長であった。

「貴様ら! それ以上暴れると反省の念はないと見え、単位募集に対する抗議の意見が通らなくなるぞ! そのうえに、サークル活動での学校設備の許可証も取れなくなるぞ!」

 その言葉に根明どもはたじろぎ、おとなしく縄についてしまったのだ。根明どもを連行したのち生徒会長は私たちに話しかけた。いかにもさわやかで、秋晴れのような男であった。

「いくらかの生徒たちからね、君たちの救助の要望があってね。イヤ、危ないところだったよ。いったい君たちは何をやったのかな? よければ話を聞かせてくれないだろうか。今夜生徒会の飲み会があるんだ」

 聞けばその飲み会は女性も多く訪れるらしい。ついに私の活躍が天に認められ待ちに待った薔薇色のキャンパスライフを過ごせるのか。心の中に潜む像に乗った魔人である私は今にもその大きな象の背中の上でダンスでも踊りだしそうな勢いであった。

「ですが、断ります」

 煩悩に負けてはこの恋愛資本主義で幸福の富を手放さない愚か者と同じなのである! 私もそちらに行きたいが、それでは今まで私が築き上げてきた幸福論はバベルの楼閣のように砂に消えて埋もれてしまう。そんなことがあっていいのであろうか! 唯一理性を持つ生き物である人類が本能のまま腰を動かしても酔うのであろうか! 私は泣いて馬謖を斬りその場を去るのであった。

「あーあ、いいんですか旦那。あんなチャンスめったにないですよ」

「うるさい。もういいのだ! 私は私のシナリオで幸せをつかむのだ!」

 そう、私の幸せはこの花壇の花たちのように素朴で深い愛情に包まれているものであるのだ。願うことならいっそ花になりたいことである。

「ん? 花壇に何か? あーあ、旦那も気が付いてしまったんですね? ここの角、たばこの吸い殻が捨てられてますよ」

「たばこの吸い殻だと? こんな美しき場所に! 許さん! 秋からはこれもやるぞ!」

 私は花壇からこの世の悪の化身たる煙草の吸殻を拾い上げ握りつぶすのだった。それを見て小柳は気色の悪い笑顔を作っていった。

「そういえばあのさわやか生徒会長、歩きながら煙草をふかしているのを見たことありますよ」

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