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小説:イノセントボーイズ

 その柔らかく純粋な心を他人はおろか外気にも触れさせなかった我々の心はすでに発酵して独特の汁を垂れ流すまでになってしまった。

 この布団のないこたつを中央に構えた私の牙城はその汁が垂れては蒸発し、垂れては蒸発しを繰り返し、濃密で空気すらも屈折させる熱気を私の部屋に充満させていた。妖怪どもが発するその蒸気の前にはエアコンなどは歯が立たない。

 未知の菌すらも培養されているであろうこの空間であろうことか妖怪どもはは蒸し鍋を食らいたいと喚き出す。私はこたつの周りを囲う三人の妖怪の真ん中に何かよくわからない肉と何かよくわからない葉野菜を詰め込んだフライパンを置くこと以外の行動は許されなかった。

 プライパンの中身を封印する蓋を開けると、空気はさらに膨張し、質量をもった空気が我々の精神に襲い掛かった。この木星のガスのような密度を持つ空気が空気が外に吐き出されれば、たちまち世界は地獄と化し、アメリカザリガニすら死に絶え、デスゾーンはさらにもう8000m押し上げられることだろう。

 どうしてここまでなるまでに我々はこの自尊心を膨張させ、孤独との戦いに勝利し続けてしまったのか。孤高なる戦いの果てにあるものがシュールストレミングと同等の気配を放つことだと分かっていれば我々は孤独との戦いから降り、情けなく孤独を紛らわしながら薔薇色の生活を送ることができたのであろうか。

 断じて否! 

 そう言いたいところではある。言いたいところではあるが、それを言った瞬間私を囲う三人の妖怪は私の舌を引きちぎるに違いない。それ以外の答えを言っても私の舌を引きちぎるに違いないが。

「おい、黙っていないで何かしゃべってはどうだ。この阿呆。まあ、どうあがいても雄弁は銀であるがな」

 目の前の妖怪は橋で私を指さして言う。野菜であろうと肉であろうと麺のごとくすするその妖怪の名は佐田宗氏。その男は生きている次元をまちがえてしまった悲しい生き物である。

 彼はアニメと漫画をむさぼりその世界と自分の脳内をつなぎ合わせ、画面の向こう側に彼女を作ったのはいいものの、彼は二次元と三次元の間に存在する漸近線の壊し方だけは見出すことができなかった。それでも、クリスマスや彼女の誕生日になると彼は自家製のケーキを焼き、彼女と一緒に食べるその姿はまさに純粋な愛そのものである。

 そんな純粋な男だ。本来ならば授業が終わり他人の城に上がり込むようなことはない。そんな時間があれば自室で瞑想し二次元と三次元の間に存在する漸近線を砕こうと一人寂しく孤独と向き合うような男である。液晶の中へと驀進するこの男が瞑想による二次元の接触をあきらめここで汁を垂れ流しているということは、それすなわち私への怒りが彼の体の中で渦巻いているということの証明であるのだ。

「おい、早く言うんだ」

「逃げようったってそうはいかない。ここは貴様の家だからな」

 私の食器で肉をつまみながら言う、佐田の両椀である井高と唐戸も純度の差こそはあれど、似たようなものだ。そして、まことに心外なことながら私も彼らと同じく次元の壁を超えるべく驀進し、その純粋すぎる魂を発酵させ続けてきた。

 しかし、だからと言ってこのまま破滅の光に突き進むわけにはいかないのだ。最近できた友人の言葉である、「遅すぎるなんてありえない、今が最速」というさわやかな名言を心の中で唱え、勇気を振り絞り切り込む。できるものなら私の舌を切ってしまえ。娼婦とファーストキスを交わすであろうその舌を。

「オレは卒業するぞ」

 ふざけるな! 恥を知れ! お前の誇りはその程度か! 当然の反応である。俺があちら側に回ったら間違いなく同じことを言い、同じように紙コップを私に投げつけるであろう。しかし、裏を返せば私たちはお互いの行動をひっくり返せるほど心根が似通っている。であれば彼らを納得させる誠意というのは予想が付く。

「オレは先週の火曜日から自分を慰めてはいない」

 一石二鳥とはこのことだ。私の発言に妖怪どもは押し黙る。そして涙を浮かべる。彼らもまた知っているのだ。孤独を戦うこととはそれすなわち暇と戦うということであり、その時の最大の敵というのが性欲であるということを。

 我々の間に友情が戻ったと感じたその刹那、私は本題に触れる。

「芒か芳、どちらがいいだろう」

 しなびた野菜と安い肉が各妖怪の腹に吸収されたと同時に私の部屋の空気は変化した。それは知的という言葉が最も似合う空間であった。窓の外からこの室内をのぞき見したら十人中十二人が考える人が四体おいてある美術室と錯覚するだろう。

「どちらも悩ましい。卒業をするのであればそれ相応の準備をせねばならん。北の大地も大都会もどちらも興味深い知の誘惑が多すぎる。それに負けてはただの旅行になってしまうだろう。果たしてどうしたらいいものか」

 佐田は次元の壁を突き破るために鍛えた脳をこの難問の解決のために全力で動かした。それは彼の両腕も同じようで彼の革新的な問いかけとともに議論はポップコーンのようにはじける。

「しかし、世の中には卒業旅行という言葉がある。その言葉に従うのであればむしろ誘惑もあってよいものになる」

「それではどちらも中途半端になってしまうのではないだろうか。それが一番恐ろしいのではないだろうか」

「卒業のみが目的であるなら、わざわざそんな遠い地に行く必要はあるのか?」

「何を言っている! 卒業式にジャージでくる奴があるか! ハレの日だぞ! 人生で一番の晴れ着を着て臨むだろうが!」

「阿呆が! 卒業時は裸であろう!」

「何と破廉恥か! 紳士は真に裸になることはないぞ!」

「欲を満たすだけの行為が紳士なものか!」

「貴様! 卒業はどうした!」

 熱を帯びた空気は止まることなく、さらに上記の逸した案が乱立し、朝を迎えてしまった。我々としては朝日を拝んだ記憶はないのだが、それでも朝はやってきてしまった。いつの間にか、瓶と缶が部屋の中に転がっている。部屋の中ですっぱいにおいがするのは佐田が吐いたからか、それとも我々が持つ酵母菌の影響か。

 結局次元を超える方法も芒か芳かの結論も私たちには何一つわからなかった。ただ唯一わかるのは、いずれにせよどちらも童貞には解決できぬ問題であったということだけだ。せめてもの抵抗としてこの空気を世界に解き放ってしまおう。室内に熱くさわやかな風が入ってきた。


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