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神様からのガッカリプレゼント、結局何らかの形で役に立っていたりする

先週、初めてハチに刺された。
それもスズメバチに。

めちゃくちゃ痛かったしめちゃくちゃ焦ったし、刺された箇所がパンパンに腫れて一日中動きづらかったけど、

不思議と「ラッキーだなあ」という気持ちになった。自分でも意外なくらいそれを肯定的に捉える気持ちがあって、なんだか変な感じがするくらい。

もちろん痛いのが快楽だとかそういうことではなくて、
「ああ、これで私はまた一つ、怖いことがなくなった」と感じたからだ。
これまで私は漠然と、ハチを怖がっていた。ハチが近づいてきたら、それが何なのかわからないまま「どうやら恐ろしいらしい」という情報だけでビクビクしていたわけだけど、今回その情報に経験という肉付けが成されることで、その恐怖にくっきりとした輪郭が生まれたような感じ。

恐怖の輪郭がハッキリした後というのは、たいていの場合、そうなる前よりいくぶん小さく見える。

就職する前は漠然と「社会人になること」を恐れていたけれど、いちど経験してしまえば、それはごく当たり前のものになる。

子どもが生まれる前は「母という肩書き」を恐れていたけれど、こちらも経験してしまえばただの日常の一部だ。

転職、独立すること、いきなり仕事がなくなること、金銭的な困窮、理不尽な役目を背負わされること、中傷を受けること、陰口を言われること、孤立すること、せせら笑われること。挫折すること。全て経験してきて、その輪郭をくっきりと描くことが出来る今、もちろん避けられるなら避けたいものもあるけれど、少なくとも、経験する前よりは怖くない。

頭の中で情報から導いた想像は私を弱くするけど、心と肉体が体験した確かな痛みは、いつだって私を強くしてくれた。

痛みや苦しみよ、どうぞ私の人生に入ってきなさい、、なんてそんなにでっかく構えられるワケではないけれど、そのような心持ちが芽生えつつあるのは確か。

「失敗は成功の母」だとか「挫折を経験せずに成功なし」だとか「成功者は成功の前に何倍も失敗してる」だとかの話は耳にタコができるほど聞いてきたし頭では分かっていたわけだけど、これもまた、人生に関するあれこれの不安と同じだ。頭で分かってるだけ、想像するだけでは何の意味もなくて、経験することではじめて私の血肉になる。

つまり「痛みだけが自分を強くしてくれる」という実際の経験を通して、私は「痛みを歓迎する」という姿勢を、どうやら本当に身につけつつある。

ここのところずっと「何も考えないで生活する」ことにしているわけだけど、これが実践できるのも「失敗しても、挫折しても、怖い思いをしても、結局得する」という実感があるからに他ならないと思う。

今、上手くいってないような気がするあのことやこのこと、つまらなく思えるあのことやこのことに対しても、肩の力を抜いて「これは今後への伏線ということね。どんなふうに回収されていくか楽しみに待っておきますね」という心持ちで見守ることが出来ていたりする。人生を愛する、信頼するって、こういうことかもね。


人生におけるギフトは、ギフトのように見えないこともある

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