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愛情自給率を上げていくということ(愛を求めて彷徨うのはもうやめよう)

私たちは大人(親、ないし親の役割を代理する大人)たちに育てられて大人になった。
大人たちは子供だった私たちに寝床を与え、食べ物を与え、着るものを供給してくれた。なぜなら子供には、それらを自分で自分に供給する能力がないから。
子供だった私たちは親からの世話を受け取り、成長し、それらを自分で供給できるようになった。働いて金を稼ぎ、住処を確保し、食べ物を買ってくるか作るかして食べ、自分で買った服を着るようになった。
様々な事情でそれらの一部を親や誰かに頼っている場合もあるだろうけど、とにかく子供は、生活に必要なものを自分で供給できるよう教育されるものだ。

でも愛情についてはどうか。
私たちは愛情の供給について何も学ばないどころか、自分で自分に愛情を供給するなんて恥だと教えられる。
愛情は他人にもらうもので、他人に渡すもの。自分で自分に渡すなんてワガママだと。
親は、世間は、常識は、自分で自分を褒めることになんか価値はない、他人に愛情をもらえることに価値を見出せと言う。

私たちはいつも飢えている

それは愛情の乞食になれと言っているようなものではないだろうか。
というのは、人は愛情がなければ生きていけない。自ら愛を供給できないのなら、他人に愛情を恵んでもらうしかない。
親が愛してくれるうちは良いとしても、親元はいつか離れねばならないし、少なくともいつかは先に死んでしまうのが親だ。
私たちは愛の供給について何も教わらないまま世間に放り出され、愛の乞食になって亡霊のように彷徨う。

事実そういう人は全く珍しくないどころか、世の中の多くを占めていると言っていいと思う。誰かに愛してもらうために行動し、愛してくれる誰かの機嫌を損ねないよう脅えながら生活する。人間関係の不確かさに恐怖し、たくさんの愛情供給源を欲しがる。友達から誘われなければ不安を募らせ、恋人の愛情を試そうと必死になる。私たちにとって親しい人間関係というのは愛情を相互に交換しあう取引先のようなものだ。誰かに嫌われたり攻撃されると、この世の終わりのように感じる。私たちはその攻撃、嫌われたことそのものによってダメージを受けるというよりも、愛情の供給源が一つ減ったということにダメージを受けているのだ。

なぜ誰も私たちに愛を教えてくれなかったのか

そこにはもちろんいくつか理由がある。

一つは、私たちを育てた親たちもまた、愛情の自己供給について全く学んでいないということ。さらに言えば愛情を自分で供給できない人も自分の子供との間に愛情の相互交換関係を構築することでそれを解決することができるため、親たちにとっては全ては解決済みで、愛の自己供給などできなくとも何の問題もない、ということで納得してしまっていたりする。
だからこそ親たちは良かれと思って「あなたも早くいい人を見つけて子供を作りなさい」なんて言いたくなるのかもしれない。親たちも愛を求めてうろつく辛さを知っている。でも大丈夫よ、子供を産めばいいの。そうすれば寂しくないのよ。

そしてもう一つ、愛情を自己供給できない人間は資本主義社会にとって都合がいいため、世の中でも、愛情の供給の重要性については滅多に語られないというのがある。
愛情の乞食たちは愛情を手に入れるためなら文字通り何でもするし、いくらでもお金を払う。だから広告はこぞって言う、あなたのここが、あそこがダメだからあなたは愛されない。理想のあなたになれば、きっと愛情がたっぷり貰えますよ。だからこの商品を買って理想のあなたになりましょう。
愛情を自己供給できる人たちは理想の自分を追いかけないし、無闇にもっといい生活も追いかけることがない。たとえ完璧ではないとしてもそんな自分に満足していて、他人を愛すことはあっても、他人に愛をせがんだりしない。…そんな幸福な人は金を使わない。使う必要がない。よって資本主義と相性が悪い。

愛情の自給率をあげるということ

誰かに愛されないことを不安に思ったり、自分が何かにおいて欠けているとか何かが足りないと思ってしまうのは、多分、私たちが愛情の乞食だからだ。愛情の自給率が低すぎるために、他人の愛情に依存しているからだ。

愛情の自給率を上げよう。心の中に、誰にも荒らすことのできない畑を作ろう。愛をせがまなくても生きていけるように。たとえ誰かに嫌われても、死にたくなるほど苦しまなくて済むように。
私たちは多分本能的に、他人と助け合うことがプログラムされている生き物だと思う。だから完全に愛情を自給自足し1人で生きていくのは難しい。
けれど、少なくとも一部を自分で賄うことくらいはできるんじゃないだろうか。

自分をもっと褒めよう。どうせ誰も私たちが期待するほどには褒めてなんかくれないし、褒めてくれた人も永遠に褒め続けてくれるわけじゃない。その人自身が褒められたくて褒めているだけってことさえある。
自分をいたわろう。どうせ誰も私たちを十分にいたわってなんかくれないし、いたわってくれる人は、私たちをもっと働かせようと目論んでいるだけかもしれない。
自分を慰めよう。どうせ誰も私たちの悲しみを完璧に理解してくれることなどないし、理解するフリをして私たちを操ろうとしているのかもしれない。
自分を励まそう。私たちの頑張りなんて誰も見ちゃいないし、私たちの成功に誰も興味なんか持ってくれない。

他人を頼るのはやめよう。それは他人が悪だからとか信用ならないからとかそういう話じゃない。他人のほとんどは、やはり私たちと同じように愛情の乞食なのだから、頼ることは多くの人にとって負担でしかない。彼らは求められるだけの愛情を与えられるほど豊かじゃない。乞食同士で愛情を与え合ったり奪い合ったりしても苦しみが増すだけだ。

愛情を自己供給できる人だけが、人から頼られ、依存され、愛を求められることに耐えられる。そしてそういう人であれば、本当の意味で誰かを褒め、いたわり、慰め、励ますことができるんじゃないかと思う。でかい畑を持っていれば、ご近所さんに分けてあげられる。そういう人が強い人だ。

私は強い人になりたいし、この文を通じて、あなたにも強くなろうと誘ってみている。
愛を自己供給しよう。100%は無理でも、ただ、その割合を上げていこう。愛をお裾分けできる強い人が世の中に増えていけば、どうしても強くなれない弱い人たち、人に愛情を求めずにいられない人たちも、今よりずっとずっと生きやすくなるんじゃないだろうか。

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考えるイラストレーター。twitterで絵や漫画を描いてます(@kaqico)。noteはtwitterに書ききれないボリュームの文章や漫画を載せていく予定です。

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コメント (7)
自給できたとして、他人にも愛情を分ける考えを持たせる親は、日本社会ではなかなかいないかもしれないですね。

「他人に迷惑にならないように」と教える親は多いですが、それは究極「他人に踏み込まないように」「不用意に他人に関わらないように」という回避系行動なので、
愛情を分けるような積極的に関わりにいく行動は、こういう教え方が植えつけられていると、いくら自給率が上がっても、他人にそれが回ることはよほどのことがない限りないのかもしれません。
素敵な記事と思いました。読ませていただき、心が軽くなりました。ありがとうございます。
愛情自給率という言葉が長年のもやもやを取り払ってくれました。ありがとうございます。
素敵な記事ですね。読めてよかったです。
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