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10年の重みと軽さ

2021年3月11日(木)
今日で東北大震災から10年経ったそうだ。
あんなに大変だったのに、その記憶もかなり遠い。
人の記憶なんていつもそうだ。
正確だった事などありはしない。
ついさっきの会話でさえ食い違いが起きるほど人は曖昧に生きている。

阪神淡路大震災の時、僕は惑星ピスタチオの「破壊ランナー」大阪公演が終わり、打ち上げも終わり、先輩の保村大和さんと始発まで深夜喫茶で時間を潰していた。
次の瞬間、徐々に、しかしすぐに激しい揺れが襲った。
あまりの長さと大きさにこれが地震なのか確証が持てなかった。
でも、その直後に大阪の街は傷つき、あちこちが壊れ、駅は床が抜け落ち、電気も来てなかった。
しかし、被害の中枢は違っていた。
近所の照明さんの家でテレビを見てはじめて知った衝撃。
いつも通っていた三ノ宮や神戸の町が燃えて、高速道路が倒れていたのだ。
それまでこんな大きな地震の被害なんて無かった。
街は焼け野原と瓦礫の山で、焼け出されて人たちが公園で住み、戦後のようだった。
水をもらうのも、バスに乗るのも、何をするにも行列だった。
とても辛かった。
もう街は戻らないと悲嘆に暮れた。
しかし、わずか三ヶ月で電車は開通し、それなりの復興を遂げた。
人間は凄いと驚嘆した。

しかし、東北は違った。
地震だけでなく津波が街を飲み込んだ。
何百の死体が海に浮かんでいる。
とヘリのリポーターが叫んでいた。
でもその映像は映らない。
街が呑まれ、人も呑まれ、何もかも無くなった。地震なら瓦礫を除けるだけでいい。
でも、津波は違う。全てが無くなるのだ。
奪い去り、泥で覆われる。


そしてファンタジーの世界だけだと思ってた、原子力発電所が爆発した。
もう日本は終わりだと思った。
小学生の頃のチェルノブイリの悲劇が脳裏によぎった。
電源さえ切れば、放射能は止まると思ってた無知。
電源を切っても核燃料が冷えて抜き取れる様になるまで30年もかかるなんて、きっと誰も知らなかった。
つまり事故が起きたらもう止める手立てはないのだ。
あの日、原子力発電所の屋根が吹き飛んだ衝撃を、僕たちはもう忘れ始めている。

街は死んで、今でも誰も帰れないのに。
復興どころか、未だにあの日の破壊が片付けられずに10年過ぎた。
その間にも熊本や北海道でも地震が起きた。
雨や台風でも街は破壊される様になった。
もう政府では手に負えないくらい街が壊れている。

僕たちはそれを知っているけど、知らないふりをして日常を生きている。
それも仕方ない。気にしていても何も出来ないし、自分が生きることで精一杯どから。

でも、少し生活に余裕が出来たのなら、どんなことでもいいから、少しでも復興への手助けをしてもよいのではなかろうか?

そう思う。
コンビニの募金箱への募金でも良い。
直接街へ行って、観光でお金を落としていくのもよい。
やり方はそれぞれでよい。

僕たちはイベント屋だ。
人を集めて楽しませるのが仕事だ。
でも去年から、世界は人を集めることは悪い事に変わってしまった。
全ての仕事は無くなった。
世界中の人間が家にこもって、世界が止まった。
これも信じられないけど、現実だ。
そしてそなわずか二ヶ月で自然は物凄い速さで回復を見せた。
なんとも皮肉だ。

僕達はまだコロナの渦中である。
でも、この一年で戦う術を手に入れた。
幸い僕は今、医療機関の傘下でイベント会社を運営する仕事についている。
これも10年前からは想像もできない事だ。

まずは、その一歩目として。
福島へのチャリティーイベントを開催する。
2021年4月18日(日)
飯能にて。

未だに破壊されて、故郷に帰れない東北の方々の為に、コロナで止まった世界を動かす為に。

それが僕達が選んだ道だから。

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