第一章 ・料理人を目指す事に迷いがなかった理由
2019年12月に、「割烹TAJIMA」は無事に2周年を迎えることが出来ました。
これも皆さんの支えがあり継続できている事なので幸せな気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございます。
五章に分けてあんな事、こんな事があった料理人生を簡単にまとめるのでお手すきの時間に読んで頂けると嬉しいです。
田島の家族構成
埼玉県美里町で生まれ自営業の庭師の父、専業主婦の母の下で育つ。
末っ子長男姉2人で親戚も女性が多く、末っ子だったということもあり、最高に甘えん坊で、甘やかされてすくすくと育ちました。
一歳の時の写真
小さな頃のコンプレックス
勉強も興味がなく、赤点ギリギリ。小学校からずっとスポーツはしていましたが、中学1年生になっても身長144cmで体格にも恵まれていなく、何をやっても秀でるものるものがなかった僕は、日々頼りない自分にうんざりしていました。
しかし母は僕の興味のあることは全て与えてくれ、チャンスをくれたのは覚えています。
中学の写真が手元になかったので幼年期の写真を
勉強は相変わらずやらない。でも高校生になる頃には170cmを超え少しスポーツでも勝負できるようになり、それと同時に最初の「モテ期」がきましたw
(これで本当にモテたのか。。)
腰パンと髪型がひどいw
進路の三者面談
三者面談の時に、初めて母と担任の先生とで進路の話をしました。
先生:田島、進路はどうするんだ?
僕: 庭師になります。
母: !?
県内で就職をしてくれるだろうと思っていた母は、
母: ムリムリ!うちの仕事はダメ
僕: え?そうなの? じゃあ料理学校行く。
と、まあいい加減な決め方です。
しかしそれには一応根拠(手応え)みたいなものがあったんです。
地元の和食料理屋さんのアルバイト
なにをやっても中の下の僕でしたが、料理に関しては、他の事よりも覚えるスピードが速いし、なにを任されても人よりすぐに出来ました。気付いたら30歳過ぎる社員さんを超え、客席150席もある店を僕がキッチン全体を指示するほどまでに。初めて、人に頼られる、求められるということを実感し、充実していたことを覚えています。
アルバイトの時に言われた忘れられない一言
包丁やまな板を拭く小さなフキン。当たり前に思うけどそれは洗って綺麗でなくてはいけません。ですが学生アルバイトレベルでは意外と気づけない部分で、その時年長の社員さんに「田島、お前そのフキンで顔拭けるんか?」と言われました。
グッと刺さりました。
料理を作る上で厳しく指導された事よりも、ひどく落ち込んだというか。同時に料理人というものに対してより興味が溢れてきました。調理をするだけが全てではなく見えないけど大事なことがたくさんあるのではないかと。そう思ったら、もっと深く料理を学びたいという欲求がどんどん湧いてきました。
大学進学は一ミクロンも考えていなかった僕は、そんなこんなで服部栄養専門学校に入学したのでした。
(二章に続く)
料理人になる事に迷いがなかった理由
20歳の僕。最初の修行先、京都「割烹八寸」で。
世の中にはたくさん優秀な人がいるし、学業で競争に勝てる気もしなかったし、スポーツも通用しない、だから料理人になるしかない。
みんな程能力は無いし、努力もしてこなかったと自分でも思います。でも料理なら興味もあったし能力的な手応えも感じていたので、迷いはしませんでした。
冒頭にもあったけど父も職人だったことから、僕も職人になりたかったと思っていたから納得したし、職人として生きるなら何があっても辞めない。大事なことは続けること、腹をくくること。
言い方はネガティブだけど、人生をかける強い気持ちだけはありました。
「僕はこれしかできない。でもこれならできる」
こうして、僕は自信を持って自分の進路を決めました。
つづく。
第二章
・日本料理の修行って厳しそう。ってホント?
第三章
・Thank youしか言えない奴がサンフランシスコに行ったってよ
第四章
・残金xx,xxx円からの開業はもはやドラマ
最終章
・ありがとう。割烹TAJIMAの2年間
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