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「君の小説のテーマはネ、『ピュアイズム』だよ」【雑記2】

「君の小説のテーマはネ、『ピュアイズム』だよ」

 とは、僕のゼミの教授であるF先生の言だ。

 大学の卒業を間近に控えた二月の肌寒い夜、四年間世話になり続けたF先生とサシで呑みに行ったのは、意外にもその日が初めてだった。そうして僕はこの先、もうF先生と呑みに行くことは無いだろうと思っている。何か諍いがあったとか、あるいはそこそこお年を召したF先生に縁起でもない将来を予想しているとか、そういう訳では別にない。ただF先生は「大学を出た学生に対して先生として関わる心算は無い」という意味のことを常々言っていたし、僕の方でも次にF先生と対話するときには作家の言葉で物事を語れる人間になっていなければいけない、早い話がもっと今よりもましな出来の小説を読んでもらって、それより後には余計な言葉を続けるまでもない人間にならなければいけないと思っていて、だから何となくそういう気がするというだけの話である。

 F先生に初めて出会ったのは、大学の入学前教育である。僕の通ったのは芸術大学の文芸学科というところで、そのときには二十枚の短編を書いてこいという課題が出ていた。そこに僕は、僕が本当の意味で小説を書き始めるきっかけとなったある出来事を書いて、私小説として提出した。概ね下のような内容である。

 ある薄曇りに曇った妙に冷たい夏の日のことである。少年は鈍行列車で東京へ向かう長旅の途中、ある少女に出会った。濃紺のセーラー服に身を包んだその少女の姿は、列車に差し込む白々とした曇天の陽光の中に、大変美しく少年の目に映った。それは例えば恋愛的な感動などとはまったく異なった感動で、少年はただただこの美しい光景に歓喜した。けれどもその歓喜の裏には、少年を圧し潰さんばかりの強い力がはたらいていた。間違っている。自分はここに居てはならない。この美しい光景の中に、自分の存在は雑音である。完全なる観測者として、もっとずっと純粋にこの光景を見たいと思った。けれどもその為には、観測者たる自分の存在が何よりも不純であった。やがて少女はある駅で列車を降りてゆく。少女の後姿を見ながら、少年は、この美しい光景が終わってしまうことに、何か絶望的な歓びを見出していた。……

「君ね、私小説は絶対に『ワタクシショウセツ』と読んでください、『シショウセツ』じゃ、ありませんから!」

 というのがF先生の第一声であったかどうか記憶は定かではないが、劇的だったのでこういう一言からF先生の講評が始まったことにしておこうと思う。F先生はS社とかK社とか、下手をすると年に一度も書店に行かないうちの親のような人間ですら名前を知っている第一流の出版社で長年書籍編集者をやってきた教授である。まだまだ稚拙な僕の文章に一言一句ずつ丁寧に赤字を入れて、その赤字の意味を余すことなくすべて説明し尽くした後に僕に問いかけた。

「君ね、君の小説のテーマは何だと思いますか」

 僕はぼんやりした声でそれは美だと思うとか何とか答えたが、F先生は「うーん、僕は違うと思うナ」と腕組みをして、結局その時は答えらしい答えは出さずに、

「君の小説のテーマがいったい何なのか、じっくし考えてみてください。僕も考えてみるからサ、じゃ!」

 とか言ってどこかへ行ってしまった。

 それから何週間かは、F先生がその答えを引っ提げて来ることを待ち望んでいたが、特にそういう機会はやってこなかった。もっともF先生は僕の手渡した小説の原稿を「まだ読んでない! 来週読むから!」と言い続けて夏休み明けまで塩漬けにし、「君の原稿がネ! どこかに行っちゃった、絶対に東京の僕のデスクのどこかにあるはずなんだよ!」などと弁明した挙句、発掘された原稿がなぜかF先生からではなく友人経由で返ってくるというような滅茶滅茶なところがあり(これは道理である。どこかしらが滅茶滅茶な人間でないと書籍編集者などやっていられないのだ)、だからこの問答のこともさっぱり忘れてしまったのだろうと半ばは諦めて、けれども僕は四年間ぼんやりとこの問いを心の内に持ち続けていた。誰かに文庫本を借りた後、そいつがどこか遠くへ引っ越してしまって、何年返せていないのか判らないその文庫本が大掃除の合間にふと本棚の奥から姿を現したときのように、時々はその問いのことを記憶の抽斗から取り出して反芻した。

 大学三回生になると、僕はF先生のゼミに入り、出版業界を目指して就職活動をしながら、並行して小説も書き続けた。学科には学生の前途として、まともに社会に迎合して就職するか、アウトローに小説を書き続けるかの二択を迫られるような雰囲気が漂っていたが、なんとなくそれを打ち壊しにしてやりたい気持ちもしたし、単純にどっちも面白そうだから両方に足を突っ込んでやりたいとも思った。有難くも僕はなんとか出版社に滑り込み、それなりの小説を書いて大学の賞をもらった。卒業を前に、F先生はそんな僕をひっそりと祝う席を用意してくれたのだ、と言いたいところであるが、実際のところ就活はともかく、小説の出来には僕もF先生も少しも納得いっていなかった。

 その卒業制作は、僕の半生を半ばはそのまま描いたものである。父がアルコールに溺れ、十歳のときに両親が離婚、その後十年来音信不通であった父方の親戚と二十歳になって再会し、父の本当の姿に近付いていくという筋書きだったが、どう考えても二百五十枚は要りそうな内容を規定に合わせてむりやり百五十枚に収めた構成上の問題はもちろん、何より踏み込み方が足りなかった。もっと奥底の痛いところに土足で踏み込んで、見たくないものを表に引きずり出さないことには、これはとても小説とは呼べないと思った。結局は自分が可愛かったのだ。そんな情けない作品であるから、賞をもらったことへの祝いの言葉をかけられる度に、嬉しさよりも何か人を騙し討ちにしているような罪悪感が募った。だからF先生にその弱みを見抜かれた時には、むしろ清々しい気持ちがした。この席は、祝いというよりむしろ激励の場であった。

 そんな席でふとF先生が呟いたのが冒頭の言葉である。今回の卒業制作を読んで良く分かった。君は──そして恐らくは君のお父さんも──純粋主義、ピュアイズムの人だよ。だからそれをもっと突きつめて書きなさい。四年越しに返ってきたその言葉が深い深い心の鍵穴の一番奥まで滑らかに刺さってくるりと回るのが分かった。

 それからもう間もなく丸一年が経つ。なんで今更こんなことをつらつらと書き綴っているのかというと、高準氏の『ぼくと上位存在について』という文章を読んで、当時の心境がじわじわと蘇ってきたからである。

 ぼくの中には常に上位存在的なものが存在している。ただの妄想だろう、と言われそうだし、実際おそらくはそうなのだが、少なくともぼくの中ではそういうことになっている。上位存在の意思とぼくの意思は別個に存在し、ぼくは上位存在の意思に多少反抗することはあっても、恒久的には上位存在の意思に従うことになる。
(中略)
 私の生活は常に上位存在とともにあった。公共のトイレでどの便器を使うかといった事象も私の意思ではなかったし、あるいは一般的な倫理すらも上位存在に学んだ。

Takajun『ぼくと上位存在について』


 僕に上位存在が居るとしたら、それはピュアイズムなのだろうと思った。高準氏が語るほどの人格的な存在感は持ち合わせていないにもせよ、それは呪いに似ていて、ずっと僕の背後や頭上に付き纏っていた。

 僕は、小説は、必ず小説のためだけに書かれなければならない、と信じていた。信じていたと言うが、実際のところ何らかの力によってその信念を背負わされているという感覚の方が近い。小説が何らかの目的へ向かう手段とされていることを許せずに、在学中は方々に、それも学生だけでなく恐れ多いことに教授にも噛み付き喧々諤々やっているのが常であった。自己顕示や経済上の計算の上に成り立つ小説、つまりは作家として人気になりたいだとか、商業的にも儲かる小説を書かなければならないのだとかいう言論を許せないのはもちろんのこと、誰かを勇気づけたいとか、何かを伝えたいとか、そういう動機のもとに書かれた小説をすらも許せない気持ちだった。すべては純粋に小説に奉仕する存在でなければならない。ただ小説を書きたいという衝動に突き動かされて小説を書くことだけが本当であり、作家として人気になるのも、儲かるのも、誰かが勇気づけられるのも、何かが伝わることも、すべてはただ小説が小説として書かれた結果に付随するものでしかなく、それ自体が目的となるのは不純なことだと思っていた。そうして小説でしか表現しえないもの、小説の真髄は、必ず言葉と文章の力にあると信じていた。

 でも純度百パーセントの小説を書くことなんて、絶対に不可能なんだけどね。人間は神様じゃないんだから。残念でした。僕はもし完全なる神様が存在するのだとしたら、それは完全なる「無」と同じ存在なんじゃないかと思っている。

 僕の一番親しい友人といっても良い人物であるO君が、あるとき僕が「小説を書かなきゃ、小説を書かなきゃ」と意地悪くくすぶった薪のようにぶつぶつ言い続けるのを見て、「小説を書かなきゃいけないと思っているの?」と尋ねてきたことがある。そこには、小説を「書きたい」のではなくて? という言外のニュアンスが含まれていた。思い返せば、あの鈍行列車の車中以来、まったく自分の意志で小説を「書きたい」と思ったことは、無かったという気がする。背中から突き飛ばされるような衝動的な経験だけがそこにあり、そうしてその経験を書き上げないことには、自分がこの世に存在している意味は無いのだという信念(あるいは信仰?)だけが僕のすべてであった。

 上の如くに口では偉そうなことばかり言って、結局F先生に胸を張って読ませられる小説はただの一編も書けていないというのが、僕という人間の本当である。少しはまともな小説を書くか、さもなくばとっととくたばってしまえばいい。

 などという思考の両極端は、実にピュアイズムの呪縛の産物である。

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