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ぼくと上位存在について

ぼくの中には常に上位存在的なものが存在している。ただの妄想だろう、と言われそうだし、実際おそらくはそうなのだが、少なくともぼくの中ではそういうことになっている。上位存在の意思とぼくの意思は別個に存在し、ぼくは上位存在の意思に多少反抗することはあっても、恒久的には上位存在の意思に従うことになる。

はじめて上位存在をぼくが認識したのは小学校2年生の頃である。ぼくは転校から少し経って、「いじめられている」と認識するようになったのもこの辺りだった。少なくとも、ぼくに対する嫌がらせ的行為は子供の遊びの範囲であるとはいっても行われていた。そんなぼくを上位存在は、「世界で最も価値のない生命、死ぬべきゴミクズ」であると定義した。ぼくは自殺未遂こそしなかったが、それに納得して、そういうものだとして世界を送った。
例えば宿題のプリントに、自分の名前を書く欄が2つあれば、苗字を1つだけ書き、他はすべて空欄とした。これは注意されても変えることがなかった。このときはまだ、上位存在を明確には認識していなかったが、反抗できない意思がそこに存在していた。

私の生活は常に上位存在とともにあった。公共のトイレでどの便器を使うかといった事象も私の意思ではなかったし、あるいは一般的な倫理すらも上位存在に学んだ。金銭を無駄遣いすべきでないと考え、買い物は最小限に抑えていた。尤も揉め事を起こさない"いい子"だったかというとそうでもない。なにしろ、正しくないことはなかなか譲らない。「下ネタ」の存在を許すことができないので、周りで誰かが下品は言葉を発することに怒りで暴れていた。小学生や中学生なんていうのは汚言を発して当たり前であるのだが、私はそれを許すことができなかった。コロコロコミックを焼きたかった。一言二言であまりに暴れるので、からかわれるおもちゃになってしまった。私はこの状況をいじめられていると認識していたし、それに対する反抗として、自分の周りの物を噛んだり舐めたりして暴れていた。

上位存在のために諦めたこともある。中学生ぐらいの頃から、私のタイムライン上には女装を嗜む男子学生の文化があった。承認欲求の塊である私は、この世界に入って、面白い人間、いわばコンテンツになってみたかった。けれどそれは許されなかった。女装そのものが許されなかったわけではない。私は自分が化粧をすることを許せなかった。私の容姿は完全に最悪なのだから、「良く見せよう」とすることは不道徳で許されない行為だった。私は一番下にいなければならず、自分を良くしようとすることは上位存在に対する反逆であるのだ。

私はそうやって「正しさ」を学んできたが、それは同時に「正しくない」人々への軽蔑を生み出してしまっていた。どうして多くの人間は、上位存在の「正しい」教えに従わないのだろうか。とても残念だった。常に身の回りにある大小のトラブルは、すべて正しくないことによって起因するものであるし、正しくあれば、幸福の総量を増大できるにもかかわらず、世界には正しくない人が絶えない。私はこのことを許すことができない。できなかった、ではなく、できない、である。
上位存在は私の脳内にしかいないのだから、たとえ教えがいくら正しかったとしても、私以外は意思を受け取ることができないのは当然である。にもかかわらず、私は友人が正しくないことを受け入れられないのだ。
もし仲のいい友人が犯罪に手を染めていたら、赤の他人が犯罪者となるよりも心が痛むというのが真っ当な感性だと思う。私は犯罪でもなんでもなく、友人と呼ぶべき存在が、ただ私の中にしかない「正しさ」を受け入れないことに心を痛め、許すことができず、無駄に大きくなった感情をどこにも捨てることができないで、そうして狂って壊れてしまうことを繰り返している。

私をある程度知っている人は、正気のときと壊れているときの差が激しいと言う。壊れた時の私というのは、大抵自らを罵り、ゴミ捨て場に寝転がるような、自らを汚すような行動をする。これは「正しさアピール」とでも言うべきかもしれない。罵られるべき存在を罵り、汚すべき存在を汚しているのだ。上位存在にとって、私は常に、逆三角形状の世界の一番下にある頂点にいる。このような行動をとるのは大抵ストレスが溜まっているときだが、私に強いストレスを与えるのは、労働でも日々のニュースでもなく、友人の「正しくない」活動だ。
例を挙げるのであれば、私は「チーズ牛丼」ミームを許すことができない。人間の容姿を偏見で判断し貶すことは倫理的に許されないはずである。友人がそういった許されない行為に手を染めることに強いストレスを感じる。恐らくだが、これは宗教の戒律に近いものがあるように思っている。宗教の熱心な信者というのはこういうものなのだろうか。

今年になって私は初めて精神科に行った。私がいわゆる「健常者」ではないという自覚はあったし、そうでなかったらどうしようと思っていた。これまで行かなかったのは、金がなかったことと、いつかやらないと、と思いながらも期限がない故に引き伸ばしし続けていたから、それだけだった。
精神科医にADHDとASD両方の強い傾向があると判断されて、安心したし、別にショックではなかった。多動も、不注意によって起きる人間未満のミスも、無駄なこだわりの強さも、医学によって裏付けることができたようだった。けれど私はこれによって「お墨付き」を得てしまった。人間以下でも仕方がないと、自分に言い聞かせることができるようになってしまった。

私はもう、社会に対して誠実に前向きでいることは不可能なのだろうと思っている。端的に言えば、社会は「正しくない」からだ。
だからこの文章も、社会性を拒否している愚者による垂れ流しにすぎない。私はこういう人間であると空に向かって叫んだところで、人の心が動かせるとは思っていない。けれど私は上位存在の正しい意思を広めなければならないのだ。せめて何かのコンテンツにでもなれば幸いである。

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