日本人は吉野教授の人柄を称えることで、その人を引きずり落とす。日本社会は偉人に対して嫉妬深く、その功績を暗に否定しているのか。
名城大学の吉野教授がリチウム電池発明の功績を称えてノーベル化学賞を授与された。素晴らしいことである。
日本中の関心が吉野教授に集まるようになり、その需要を満たそうとマスコミは慌ててこの人物のことを調べ始めている。例えばその人となりについてなどである。
”久美子夫人は、吉野氏の食生活について「好き嫌いは結構、激しいです」と明かした。その上で「体のために緑黄色野菜を取って欲しいのに、のけていく…食べないんです。『もう食べたから、いいと』」と、吉野氏が野菜が嫌いだと暴露した。”
インタビュー全文が掲載されているわけではないのでどんな質問をしたのかはわからないが、「好きな食べ物はなんですか」とかそんな質問をしたのかもしれない。記者会見の場は、日常会話教室ではないのであるが。
確かにこういう質問をすれば吉野教授の「人間らしさ」が引き出せるだろう。実際、マスコミは吉野教授の「意外な」側面をさらけ出すことに成功している。ノーベル化学賞を取った権威ある教授が、こんなに「可愛らしい」、あるいは「子供のような」食事の好みをしているなんて、といった風に。Yahoo!ニュースに掲載された「吉野氏は野菜嫌い」という見出しがこうしたマスコミの意図を透かしている。皆さん聞いてください、あの教授は野菜嫌いなんです。意外でしょう。
しかし、マスコミがこうした戦略を取るのも理由あってのことだ。つまり、マスコミはいかに大衆にアピールできるかを考えてこうした見出しにしたのだ。
ではその大衆とは何を望んでいるのか。私はこないだ「直感的な判断は良くない」とよそで書いたばかりであるが、そうしても誰も傷つかないと考えて、ここではあえてそうする。
大衆の望むもの、それは「親しみやすさ」である
吉野教授について知られていることは大衆にとってはほとんどない。だから、大衆は吉野氏の経歴を詳しく知ろうとすることだってできる。どのような研究を行ってきて、今回の偉業にたどり着いたのか。どんな苦労があったのか、そういったことを知ることで、今回の偉業がどれほど素晴らしいことなのか、そうした偉業を成すために何が必要なのかを知ることができる。
だが、大衆はおそらくそうしたものを求めていない。なぜなら分野を問わず学者の世界はあまりに縁遠いものであるからだ。学問を一通りおさめたあとで、多くの日本人はそれらをすっかりと忘却し、「社会」に参加するようになり、日常生活と人間関係に飲み込まれていく。それどころか、この日常生活や人間関係はあまりに魅力的だ。そこにはありとあらゆる「人間らしさ」が詰まっていて、それについてゴシップを流したりする。職場のあの人、実はああらしいよ、私実はあれが好きなんだ、彼にも意外なところがあって、とかなんとか。こうした「人間らしさ」の展示が、他人を自分にとって近しく感じさせてくれる。TwitterなどのSNSにも「意外な私」を演出する人が、有名無名問わず氾濫し、その誰もが「人間らしさ」を誇る。「あんなに美人でもてそうな女優でも、オタクっぽいところあるんだなあ。親近感持てるわ」
それに比べて、学問の世界の色気のないことか。学者たちは一心不乱に研究に没頭している。そんなイメージが私たちの心の片隅にある。
そんな日本社会と学問の世界の関係だが、ひとつ例外的な出来事があった。小保方元博士を筆頭に語られる「STAP細胞事件である」。このときばかりは大衆は学問の世界に興味を持った。というより、学問の世界の「人間らしさ」に興味を持った。
「あら、女性なのにすごい。あんな割烹着まで着て。え、嘘だったのあれ?ひどい。信じられない。きっとあの二人は愛人関係だったんだ。所詮金目あてだったんだ。あんな嘘つく人間の神経が信じられない」。エトセトラ。
大衆は普段興味を持たないこの世界に異常なまでの関心を注いだ。それが「人間らしさ」のオンパレードだったからである。りっぱに見える学者さんもしょせん人なんだという事実が大衆を喜ばせた。あるいは大衆は安堵したのかもしれない。自分たちよりはるかに有能なエリートが、己らの「人間らしさ」のために破滅していく様を見て。
「なんだ、私たちとそっくりじゃん、親しみやすいわこのひとたち」
学問の世界に限らなければ、こうした「親しみやすさ」の発見はいたるところに見られる。最近の例でいえば大坂なおみ選手に対する好奇の眼差しがこれにあたる。
マスコミのおぜん立てで好きなタイプを話すことになった二人のテニスプレイヤー。彼らが「ガールズ(ボーイズ)トーク」をしている間は、彼らもただの好青年。私たちと同じように、恋愛に興味があるんだなー、と思える。
忘れてはいけない。彼らは世界ランクのテニスプレイヤーであること。常人には理解できない努力をしてきたからこそその場所に立てるのだということを。ただし、むしろその「理解のできなさ」が私たちをいらだたせるのかもしれない。恋愛にもあまり興味がなく、過酷なトレーニングばかりをこなして、人間らしい部分がないなんて信じられない。私たちはこんなに「人間らしさ」に関心が一杯なのに。そうだ、それなら無理やりにでも「恋バナ」をさせてやろう。そうした心理をマスコミは敏感に感知しているのかもしれない。
吉野教授の話に戻ろう。大衆は吉野教授が「野菜はろくに食べず、禁煙もせず、健康にろくに気を使わない人間」だと知って、おそらく「親しみ」を感じるのであろう。なーんだ、結局吉野教授も我々と同じで、健康にだらしないところがあるんだ、と。そう考えるとき、私たちは吉野教授が人類に比類なき貢献をその学問によって果たした人物であることを忘却している。
マスコミの質問のおかげで吉野教授は「理解できる人柄」になり、「親しみやすく」なった。これは感謝すべきことなのだろうか。
私はそうは思わない。
こちらの記事を読めばわかるように、吉野教授は日本の研究環境に危機感を抱いている。これは、これまでにもノーベル賞を受賞してきた日本人研究者の多くが指摘してきたことだったと記憶している。
吉野教授の学問的功績、日本の学術に対する警鐘を私たちは吉野教授を「親しみやすい」キャラクターへと変えることに時間を費やすことで無視している。
それでも私たちがこうして「親しみやすさ」の発見に余念がないのは、ちらりと示唆したように、私たちの嫉妬のせいなのかもしれない。偉大な人々を親しみやすくすることで、私たちは私たちと彼らとの間にある埋めがたい溝を見て見ぬふりをしようとしているのかもしれない。この点はまだわからない。いずれにせよ、一見無害に見えるこの「親しみやすさ」は、その人の偉業や功績を忘却の彼方に追いやる機能を果たしている。そして、こうした功績が適切に評価されないどころか、無意識の嫉妬を受ける社会では、いずれ功績そのものが生まれにくくなっていくだろう。
私の勘違いならいいんだけど。
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