恋を偲ぶ(忍者ラブレター)【#毎週ショートショートnote】
その男の名は知らなかった。相手は忍びである。父の命に従って敵国へ旅立ち、情報を集め、あるいは暗殺を行うのが役目であったから、名を明かすわけにはいかなかったのだ。
父が亡くなり、跡目を継いで初めてその男と対峙した。それまでは父と短く言葉を交わす姿を、それも遠目でしか見たことがない。こちらまで射抜かれそうな、鋭いまなざしの男だった。
男は父からの最後の命を果たすと言った。こちらが止めるのも聞かず姿を消し、戻ってきたのは苦無のみだった。
仲間が持ち帰ったものらしい。敵の君主を見事に討ち果たしたそうだ。己の死は覚悟していたようで、敵に挑む前に苦無を託したのだという。
――どうかこれを若殿に。
名も知らぬ男の深い双眸を思い出し、若君はそっと苦無を握った。その冴えた冷たさはあの男そのもののようだった。
これはあの男からの最後の忠誠であり、心ひそかに育んできた忍ぶ恋への答えであり、別れの恋文だった。
(本文399文字)
こちらの企画に参加させていただきました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?